太閤堤(たいこうづつみ)は、豊臣秀吉が伏見城を築城するときに、物資輸送の運搬水路を確保するために、
宇治川と巨椋池を分離させるために築いた石積みの堤防
出土した堤跡は、保存状態の良さから当時の治水技術の高さを知る遺跡となっている
桃山時代
1592年(皇紀2252)天正20年
豊臣秀吉は、伏見城の築城資材の運搬水路の水深を確保するために、巨椋池の島を結んで堤防を築いた
巨椋池には、宇治川・桂川・木津川の3つの川が直接流れ込んでおり、
大雨が降ると、巨椋池の周辺は洪水に見舞われていたといわれる
豊臣秀吉は、太閤堤・槙島堤・上島堤・下島堤・向島堤を造り、巨椋池の排水を効果的にした治水を行い、
河内平野の氾濫が少なくなったといわれる
宇治川はそれまで宇治橋下流から分流して北西方に流れて巨椋池に合流していたが、
北方に流れる流路にまとめられ、伏見城下に導かれた
大和街道を豊後橋(観月橋)に直結したことによって、奈良への道が短縮された
現在も、宇治川左岸の近くの近鉄 京都線として残っている
<宇治川太閤堤跡(うじがわたいこうつつみあと)(史跡名勝天然記念物)>
2007年(皇紀2667)平成19年9月
宇治市莵道の宇治橋下流で、宇治川の護岸遺跡が見つかった
幅5.5m、高さ2.2mの堤が、南北に約100m続いていた
川縁の斜面と岸に、近くの山で採れた粘板岩の板石を並べ、松材の杭で強化されていた
板石(幅・高さ30〜50cm、厚さ約4〜10cm)は、砂交じりの岸に直接張り付けるように並べてあり、
城郭の石垣のように見た目も重視した「化粧板」にもなっていたといわれる
水流を調節する水制には、石出しと杭出しがあり、石出しはほぼ90m間隔で3ヶ所確認されている
2009年(皇紀2669)平成21年7月23日
豊臣秀吉が行った伏見城城築城を契機とした淀川水系の治水・交通に関する施策と土木技術を
具体的に示す極めて重要な遺構として、史跡名勝天然記念物に指定される