平重衡塚(たいらのしげひらづか)は、平安時代末期の武将・公卿 平重衡のお墓
木津川の河原において首をはねられ、火葬後、この地に埋葬されたといわれる
「平家物語」では、
この地で、平重衡が南都へ護送される途中での正妻 大納言典侍との別れが描かれている
醍醐寺・一言寺から南に下り、日野薬師までの途中の住宅地の中にある
「従三位平重衡卿墓」と記された石標と、その横に、小さな五輪塔が並んでいる
お墓は、住宅地に囲まれ整備された緑地公園となっている
この地は、平家没落後、平重衡の正妻 北ノ方 大納言典侍(藤原輔子)が、身を寄せていたところといわれる
平家物語には、
1185年(皇紀1845)文治元年
一ノ谷の合戦で捕らえられ鎌倉に送られた平重衡は、東大寺・興福寺を焼失させられた南都衆徒の
訴えによって南都(奈良)へ引渡されることになり、
途中、この地に立ち寄って大納言典侍と別れを惜しんだことが語られている
大納言典侍は、日野に住む姉のもとに身を寄せ、平重衡が通るのを待っていたといわれる
木津川の河原において首をはねられた平重衡の遺体は、大納言典侍に引き取られ、
火葬後、この地に埋葬されたといわれる
平重衡は、平安時代末期の武将・公卿
平家一門の中でも武勇に優れ、和歌・琵琶・笛にも長けていたといわれる
容姿は、「牡丹の花」に例えられたとわれる
生年:1157年(皇紀1817)保元2年
没年:1185年(皇紀1845)文治元年
位階:正三位・左近衛権中将で、「三位中将」と称された
父親:平清盛
母親:平時子(平清盛の継室)