丹波国分寺跡(たんばこくぶんじあと)は、奈良時代に聖武天皇の勅命により日本各地に建立された国分寺のうち、
丹波国に建立された寺院の跡
亀岡市千歳町国分の田園地帯に鎮守の森があり、国の史跡として保存され、
継承されてきた浄土宗の国分寺の小堂が立っている
かつては、丹波国の中心地であり、
周辺には、丹波国一の宮 出雲大神宮や千歳車塚古墳、愛宕神社など多くの寺社旧跡が残っている
奈良時代
741年(皇紀1401)天平13年
聖武天皇の勅命により、国家安泰のために、諸国、国府に付属の国分寺、国分尼寺の建立が命じられ、
金光明四天王護国寺(金光明寺)、法華滅罪寺(法華寺)の創建が始まる
747年(皇紀1407)天平19年11月
朝廷から勅使が丹波国に派遣され、3年以内に伽藍を完成させることを命じられている
平安時代初期から中期の間に、塔や金堂が廃絶する
927年(皇紀1587)延長5年
延喜式主税上によると
丹波国国分寺料として稲4万束があてられた旨が記載されている
平安時代中期
国分尼寺が、廃絶したとされる
平安時代末期に、
発掘調査から、国分寺が再建されたことが判明している
平安時代後期
律令制の衰微とともに国家の財政的な庇護を失う
鎌倉時代後期、金堂が焼失する
安土桃山時代
天正年間(1573年〜1592年)
織田信長の命による明智光秀の丹波平定の兵火により衰退する
明智光秀の亀山城の築城のとき、
織田信長の命により、境内の石仏、石碑、石塔などが亀山城の石垣や石造物として利用され荒廃する
江戸時代中期
元禄年間(1688年〜1704年)に再興される
1701年(皇紀2361)元禄14年
「元禄14年」銘の鰐口が残されている
1774年(皇紀2434)安永3年頃
護勇比丘(ごゆうびく)によって、現在の本堂、山門、鐘楼が再建された
1785年(皇紀2445)天明5年、再建が終わる
1928年(皇紀2588)昭和3年2月17日指定
「丹波国分寺跡 附八幡神社跡」として国の史跡に指定されている
1935年(皇紀2595)昭和10年、御上人林廃寺で国分尼寺の7つの礎石が発掘された
1972年(皇紀2632)昭和47年、御上人林廃寺で発掘調査が行われる
1982年(皇紀2642)昭和57年より1986年(皇紀2646)昭和61年まで
10回の発掘調査が行われる
2006年(皇紀2666)平成18年1月26日
史跡範囲として寺域ほぼ全域に追加指定される
現在は、無住で、専念寺(亀岡市)により管理されている
所在地:亀岡市千歳町国分桜久保
七谷川によって形成をされた標高105m前後の台地上にあり、周囲を見下ろすことができた
手前に回廊跡、奥の林の中に主要伽藍跡と現在の境内がある
奈良時代
741年(皇紀1401)天平13年
聖武天皇の勅命により、丹波国分寺として金光明四天王護国寺(金光明寺)が建立される
寺域は2町四方(約218m四方)
封50戸・水田10町の施入があり僧20人がおかれた
<伽藍>
西に金堂、東に塔が建てられ、それらを取り囲む回廊が巡らされた法起寺式伽藍配置となっていた
南より北へ、南大門・中門・講堂・僧房が縦一列に並び、中門と講堂は回廊で結ばれていた
<金堂>
現在の境内の南西、山門西側にあった
2層の遺構が見つかっており、
創建当初の基壇の瓦積基壇と、平安時代末期頃の再建時の基壇の乱石積基壇
創建時の瓦積基壇は、東西25mあった
再建時の乱石積基壇は東西19.6m、南北15.4m、高さ約1.2mで、南面中央に幅9.5mの階段4段があった
建物は、創建時は、東西梁行15.8m、南北桁行11.6m
759年(皇紀1419)天平宝字3年に創建された奈良唐招提寺と同じ瓦の型を使った同笵瓦が見つかっている
再建時も、東西桁行15.8m、南北梁行11.6m、桁行5間・梁行4間
再建の建物は、鎌倉時代後期に焼失したとされる
<七重塔>
現在の境内の南東隅、山門の東側にあった
金堂と同様に、基壇は、創建当初のものと、平安時代末期の再建時のものが、同じ場所から見つかっている
瓦積基壇は、創建当初で15.6m四方、再建時は16.4m四方
瓦積基壇の上に、10m四方の土壇があり、その上に塔の礎石が置かれていた
礎石は出柄式で、中央に突起(ほぞ)がある心礎(東西2.7m、南北2.5m)が置かれ、
中央の心礎の四方に4つ、その外側に12個の合計17個の礎石が現存している
塔の初層の一辺は8.99m、中央間は3.1mで、脇間は2.9m
高さは、約50mとされる
七重塔には、天皇真筆の金字金光明最勝王経が納められた
<講堂>
現在の本堂と同じところにあった
瓦積基壇は、東西32.8m、南北20.9m
基壇上の建物は、東西桁行26.8m、南北梁行14.9mで、桁行7間・梁行4間
<僧房>
現在の本堂の北側にあった
瓦積基壇で、60m四方
基壇上の建物は、東西桁行柱間は3.6m、南北梁行の柱間のうち北側3間は3.3m、南側1間は3m
南側1間は通路部分とされる
<中門>
基壇東西10.5m、南北115m
<回廊>
築地塀になっていた
東西220m、南北220220m、その後、東西は150mに縮小された
<仏門の中門>
東西10.5m、南北11mあったとされる
<鎮守社の八幡神社>
所在地:京都府亀岡市河原林町河原尻
丹波国分尼寺が、国分寺の西450mほど、現在の府道405号線を隔てた地点にあったとされる
廃寺になった御上人林寺(おしょうにんばやしでら)尼寺ヶ堂があった
丹波国分尼寺跡、御上人林廃寺跡とされる
国分寺跡と同じ文様の瓦や、奈良時代から平安時代にかけての土器類が出土している
奈良時代
741年(皇紀1401)天平13年
聖武天皇の勅命により、丹波国分尼寺として法華滅罪寺(ほっけめつざいのてら)(法華寺)が建立される
寺域は、1町半四方(約165m四方)
水田10町の施入あり、尼僧10人がおかれた
<伽藍>
境内(東西約149m、東西約179m)の周囲に、土塁(高さ30cm、幅3m)が築かれていた
南から、南大門・中門・金堂・講堂・尼房が、南北一直線上に並ぶ東大寺式伽藍配置となっていた
<金堂>
瓦積基壇、東西約27m、南北約18m、桁行5間・梁行4間、南北に13mの階段が付いていた
<講堂>
東西25.8m、南北16.8m、桁行5間・梁行4間、南に階段が付いていた
<尼房>
南北約10m
<南大門>
東西約15m、南北約10m
<隅塚>
境内の東北隅にあり、鬼門に関するものといわれる
直径約12m、高さ約1.5m
<亀岡市文化資料館(亀岡市古世町中内坪)>
丹波国分寺跡の出土品などが展示されている
<愛宕神社の境内社八幡宮神社>
1835年(皇紀2495)天保6年
国分寺鎮守社を遷座したものといわれる
<蔵垣内遺跡(くらがちいせき)(亀岡市)>
国分寺の子院と見られる遺構が見つかっている
<木造 毘沙門天立像(亀岡指定文化財)>
丹波国分寺の守護神が、現在は、聖隣寺に祀られている