土佐藩邸跡(とさはんていあと)は、高瀬川沿いの立誠小学校跡から河原町通にかけて建っていた土佐藩の藩邸跡
江戸時代初期から1871年(皇紀2531)明治4年まで、土佐藩主 山内家の藩邸の京屋敷があった
高瀬川に面しても門が開かれていて、高瀬川には土佐橋が架かっていた
高瀬川沿いの土佐稲荷(岬神社)の東に石標が立つ
土佐稲荷は、藩邸内にあったもので、参拝のために藩邸内の通り抜けが許されていたといわれる
土佐藩は、現在の高知県、正式名称は「高知藩(こうちはん)」
幕末維新では、薩摩藩・長州藩とともに幕末政局の主導権を取り活躍した
桃山時代末期
土佐藩の領域を治めていた長宗我部氏は、関ヶ原の戦いにおいて西軍(豊臣方)につく
東軍(徳川家康方)についた遠江国掛川(現在の静岡県掛川市付近)を治めていた山内一豊が、土佐一国を与えられ、
山内家が明治初期まで治めることとなる
幕末維新
藩主 山内容堂は、公武合体を目指したが、
後に、勤皇派が台頭した
1863年(皇紀2523)文久3年8月18日の政変以後は、尊王攘夷を弾圧したが、
坂本龍馬などの尽力で、薩長同盟が成立し、
後藤象二郎の進言を入れて大政奉還を建白した
江戸時代初期
高瀬川沿いの立誠小学校跡あたりから河原町通の一帯に土佐藩がおかれた
1690年(皇紀2350)元禄3年
京都藩邸の守るべき法律が詳しく定められる
藩邸は、土佐藩の京都連絡事務所で、京都における根拠地
留守居役が詰め、町人の御用掛(ごようかかり)が指名され各種の連絡事務に当たった
1871年(皇紀2531)明治4年まで
土佐藩主 山内家の藩邸とされていた
高瀬川に面しても門が開かれていて、高瀬川には土佐橋が架かっていた
高瀬川沿いの土佐稲荷(岬神社)の東側に石標が立つ
土佐稲荷は、藩邸に鎮守社として祀られたもので、参拝のために藩邸内の通り抜けが許されていたといわれる
坂本龍馬・武市瑞山・中岡慎太郎・後藤象二郎らの勤皇志士が、藩邸を拠点に活躍した