宇治川先陣之碑(うじがわせんじんのひ)は、宇治橋の南側、京都府立宇治公園に立つ石碑
宇治川の中州となっている中の島(橘島)に立つ
平安時代末期、木曾義仲を征伐する宇治川の戦いにおいて、源義経の軍の佐々木高綱と梶原景季との先陣争いの史跡
<宇治川先陣争い>
宇治橋の南側、宇治川の中州となっている橘島
治承・寿永の乱(源平合戦)における源義経と木曾義仲との宇治川の戦い
源義経の軍の佐々木高綱と梶原景季との先陣争いが行われた
「平家物語」によると
源頼朝の2頭の秘蔵の名馬 池月(生食)(いけづき)と磨墨(するすみ)
上洛前に、梶原景季が、源頼朝に池月を所望するが、磨墨を賜った
上洛中に、梶原景季は、ライバルの佐々木高綱が、池月に騎乗しているのを見て驚いた
源義経の軍は、宇治川を挟んで木曾義仲と対峙する
平等院から宇治川に向かって、景季が先に進んでいた
宇治川の橘の小嶋ケ崎にて
佐々木高綱が、景季に「馬の腹帯がゆるんでいるから締めなおしたほうがよい」と声をかけ、
景季を追い越し先に川に馬を乗り入れていく
景季は、騙されたと分かり慌てて佐々木高綱を追いかけ、川の中でも先陣争いとなるが、名馬 池月は急流にもひるまず進む
佐々木高綱が、先に渡り切り
「我こそは宇多天皇から九代目の後胤、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣」と名乗ったといわれる
<徒歩立ちの一番乗り:大串重親>
「平家物語」によると
源義経の軍の畠山重忠は、500騎を率いて宇治川を渡ろうとするが、馬を射られて徒歩で渡っていると、
そこに同じく馬を流されて、おぼれかけた大串重親が畠山重忠につかまってきた
畠山重忠は、大串重親を対岸に放り投げた
対岸に投げ出された大串重親は「徒歩立ちの一番乗り」と名乗りを上げたといわれる
<宇治川先陣之碑>
宇治橋の南側、京都府立宇治公園の宇治川の中州となっている橘島に立っている
建立:1931年(皇紀2591)昭和6年5月
碑文:宇治川先陣之碑
<橘島>
宇治橋の南側、京都府立宇治公園の宇治川の中州となっている北側の島
1931年(皇紀2591)昭和6年5月に「宇治川先陣之碑」が立てられ、
翌年、先陣を争い駆け出したところ「橘の小嶋ケ崎」にちなんで「橘島」と名付けられた
<治承・寿永の乱(源平合戦)の橋合戦>
1180年(皇紀1840)治承4年5月
後白河天皇の第三皇子 以仁王と源頼政が、平氏追討のために挙兵
以仁王方は、宇治橋の橋板をはずし、平家方先陣の200騎程が、後陣に押され人馬ともども宇治川に落ちて激流にのまれてしまう
園城寺の僧兵 筒井浄妙が、橋桁の上を、華やかな黒装束で大長刀を持って、かろやかに動き回るが、太刀を川へ落してしまう
筒井浄妙の弟子 一来法師が、狭い橋桁の上で「悪しゅう候、御免あれ」と、筒井浄妙を飛び越して前に出て戦った