宇治川先陣之碑(うじがわせんじんのひ) 京都通メンバ
所在地:宇治市宇治塔川 京都府立宇治公園 中の島 橘島   名所地図情報名所

宇治川の戦い:1184年(皇紀1844)寿永3年1月20日

石碑建立:1931年(皇紀2591)昭和6年5月

 宇治川先陣之碑(うじがわせんじんのひ)は、宇治橋の南側、京都府立宇治公園に立つ石碑

 宇治川の中州となっている中の島(橘島)に立つ

 平安時代末期、木曾義仲を征伐する宇治川の戦いにおいて、源義経の軍の佐々木高綱と梶原景季との先陣争いの史跡

【宇治川先陣之碑の歴史・経緯】




【宇治川先陣争い】

 <宇治川先陣争い>
 宇治橋の南側、宇治川の中州となっている橘島
 治承・寿永の乱(源平合戦)における源義経と木曾義仲との宇治川の戦い
 源義経の軍の佐々木高綱と梶原景季との先陣争いが行われた


 「平家物語」によると
 源頼朝の2頭の秘蔵の名馬 池月(生食)(いけづき)と磨墨(するすみ)
 上洛前に、梶原景季が、源頼朝に池月を所望するが、磨墨を賜った
 上洛中に、梶原景季は、ライバルの佐々木高綱が、池月に騎乗しているのを見て驚いた

 源義経の軍は、宇治川を挟んで木曾義仲と対峙する
 平等院から宇治川に向かって、景季が先に進んでいた

 宇治川の橘の小嶋ケ崎にて
 佐々木高綱が、景季に「馬の腹帯がゆるんでいるから締めなおしたほうがよい」と声をかけ、
景季を追い越し先に川に馬を乗り入れていく
 景季は、騙されたと分かり慌てて佐々木高綱を追いかけ、川の中でも先陣争いとなるが、名馬 池月は急流にもひるまず進む
 佐々木高綱が、先に渡り切り
「我こそは宇多天皇から九代目の後胤、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣」と名乗ったといわれる


 <徒歩立ちの一番乗り:大串重親>
 「平家物語」によると
 源義経の軍の畠山重忠は、500騎を率いて宇治川を渡ろうとするが、馬を射られて徒歩で渡っていると、
 そこに同じく馬を流されて、おぼれかけた大串重親が畠山重忠につかまってきた
 畠山重忠は、大串重親を対岸に放り投げた
 対岸に投げ出された大串重親は「徒歩立ちの一番乗り」と名乗りを上げたといわれる

【宇治川先陣之碑】

 <宇治川先陣之碑>
 宇治橋の南側、京都府立宇治公園宇治川の中州となっている橘島に立っている

 建立:1931年(皇紀2591)昭和6年5月

 碑文:宇治川先陣之碑

【その他】

 <橘島>
 宇治橋の南側、京都府立宇治公園宇治川の中州となっている北側の島

 1931年(皇紀2591)昭和6年5月に「宇治川先陣之碑」が立てられ、
 翌年、先陣を争い駆け出したところ「橘の小嶋ケ崎」にちなんで「橘島」と名付けられた


 <治承・寿永の乱(源平合戦)の橋合戦>
 1180年(皇紀1840)治承4年5月
 後白河天皇の第三皇子 以仁王源頼政が、平氏追討のために挙兵
 以仁王方は、宇治橋の橋板をはずし、平家方先陣の200騎程が、後陣に押され人馬ともども宇治川に落ちて激流にのまれてしまう

 園城寺の僧兵 筒井浄妙が、橋桁の上を、華やかな黒装束で大長刀を持って、かろやかに動き回るが、太刀を川へ落してしまう
 筒井浄妙の弟子 一来法師が、狭い橋桁の上で「悪しゅう候、御免あれ」と、筒井浄妙を飛び越して前に出て戦った

【宇治川先陣之碑へのアクセス】

 京阪電車 宇治線 宇治駅 徒歩約10分
 JR奈良線 宇治駅 徒歩約10分


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