宇治田原城(うじたわらじょう)は、山城国宇治田原にあった土豪 山口秀景の屋敷城
織田信長が、土豪 山口秀景を家臣とし、山城国最南端の要所として築城を命じた
徳川家康の家康伊賀越えのときには、昼食をとり馬を乗り換えたといわれる
<宇治田原城(山口城)>
山城国宇治田原(京都府綴喜郡宇治田原町)の西の入口である郷之口の北部にある
郷之口からは、宇治田原を東西に横断して近江国信楽に至る信楽街道が走っている
織田信長が、土豪 山口秀景を家臣とし、山城国最南端の要所として築城を命じた
郷侍を集めて屋敷を構え、本町を士分、裏町を民家として城の守りとして城下町が造られる
現在、山口城城址は茶畑となっており、遺構は残されていない
近くに流れる城の川が、山口城を囲むように流れ、城の堀として活用されたといわれる
<極楽寺>
山口城跡の東にある
城主であった山口氏の菩提寺
山門は、山口城の裏門だといわれる
境内の石灯籠一基も、城のものだったといわれる
<説明版>
極楽寺の西の茶畑前に立てられている
山口城の中心地だったところ
<伊賀越え>
本能寺の変
そのとき堺を遊行していた徳川家康は、明智光秀の追討を逃れるため、慌てて三河国へ帰国することになる
河内国から尊延寺(大阪府枚方市)、甘南備山(京田辺市)を越え、草内の渡し場から木津川を渡り、
宇治田原郷に翌3日の巳の刻(午前10時)頃に着く
徳川家康に同行していた長谷川秀一は、山口秀景に近江国信楽に入るまでの警護を依頼
山口秀景の婿養子 山口光広や家臣らが山口城に迎えに出たといわれる
山口城で、昼食をとり馬を乗り換え、申の刻(午後4時)には出発し、信楽街道にて、国境の奥山田に向かい、
山口秀景の山口館で宿泊をし、翌朝、国境の裏白峠を越えて信楽へ向かったといわれる