淀城跡(よどじょうあと)は、伏見区淀本町、納所と称される地域にあった城の跡
宇治川、桂川の合流付近の川中島にあり、京阪電車 淀駅の南西に位置する
現在は、本丸の石垣と堀の一部が残り、淀城跡公園として整備されている
江戸幕府が伏見城の廃城による代替として、松平定綱に命じて築かせた
本丸には伏見城から殿舎の一部が移築されたといわれる
宇治川と桂川の合流付近の中州を干拓し、淀三町と称される城下町が形成された
北の納所地区と南の八幡地区とは、淀小橋・淀大橋でつながれ、城下町の周囲は川に囲まれた河中の城であった
縄張り(設計)は、大坂城の縄張りが参考にされ、
本丸と二の丸を中心とした「回」字形にされ、三の丸、西の丸、東外には東曲輪に巨大な馬出曲輪が置かれた
天守以外にも、多くの櫓38期と門21棟が造られた
<天守>
二条城の天守が移築された
二重の大入母屋屋根の上に三重櫓を乗せた五重五階の望楼型天守
外壁は、白漆喰総塗籠の壁であったといわれる
当初、伏見城の天守を移築する計画で天守台が設計されたが、
急遽、伏見城の天守は二条城に移され、替わりに二条城の天守が移築されることになり、
二条城の天守は小ぶりで周囲に空き地ができたため、四隅に二重櫓を置いて、その間を、多聞櫓または多聞塀で連結された
四隅にある櫓は姫路城からの移築されたものといわれ、「姫路櫓」と称された
「山城国淀天守之図」には、入り組んだ破風の天守と、隅の張り出した二重櫓が描かれている
<本丸>
三重櫓4基・二重櫓5基・平櫓6基・門3ヵ所
伏見城から殿舎の一部が移築されたといわれる
<二の丸>
二重櫓2基・平櫓6基・門5ヵ所
本丸の殿舎には徳川家光が上洛のときに宿泊したことから、城主は、二の丸に新しい御殿を造り住んだといわれる
<三の丸>
二重櫓2基・平櫓7基・門6ヵ所
<西の丸>
平櫓3基・門1ヵ所
<東曲輪>
平櫓3基・門3ヵ所
<大型水車>
淀城の西と北側に、直径9間(約16m)の大型水車が2基置かれた
二の丸の居間や、西の丸の園池に水を取り入れるのに用いられていたといわれる
「淀の川瀬の水車、だれを待つやらくるくると」と歌われた
<京街道>
城下町を貫通する形で京街道が通され、淀城大手門はその京街道に面して置かれた
<淀城跡公園>
1968年(皇紀2628)昭和43年
本丸周辺の整備が行われ、石垣や堀が保存された淀城跡公園が開園する
約1.7ha
<本丸石垣と堀跡>
<天守台>
<石垣>
<水車>
<與杼神社>
桂川の水上運輸の守護神
乙訓郡水垂村(現在の伏見区淀大下津町)から、桂川の河川敷拡幅工事に伴い現在の地に移転されてきた
<大坂淀屋寄進の高灯籠>
豪商 淀屋が管理を任されていた橋が、「淀屋橋」と称されるようになった
與杼神社に、淀屋が寄進した高灯籠がある
<稲葉神社>
與杼神社の南に建つ
<淀古城(よどこじょう)>
豊臣秀吉が、側室 茶々(淀殿)の産所として改修させた「淀城」
後の「淀城」とは、約500m離れている
豊臣秀次が謀反の疑いを掛けられたとき、城主だった木村重茲の連座とともに廃城とされた
宇治川、桂川の合流付近で、東西南が川に囲まれた天然の要害となる場所で、古くから海産物や塩などが陸揚げされ
商業が栄えた町「与渡津」があった
河内国・摂津国方面や大和国方面から山城国・京洛に入る要衝であった