吉野太夫花供養(よしのだゆうはなくよう)

日時:4月第2日曜(以前は第3日曜日に行われていた)

場所:常照寺 京都市北区鷹峯北鷹峯町   地図情報

 吉野太夫花供養(よしのだゆうはなくよう)は、常照寺で行われる二代目 吉野太夫の供養

 源光庵から常照寺の本堂まで太夫の道中があり、太夫献茶や太夫墓前祭が行われる

【吉野太夫花供養の経緯】

【吉野太夫花供養】

 日時:4月第2日曜日(以前は第3日曜日に行われていた)

 午前10時すぎ
 禿(かむろ)・大傘持ち・女中らを従えた島原太夫の一行が、源光庵の門前を出発する

 太夫道中
 島原太夫が、高下駄で内八文字を描きながら練り歩く

 11時頃 約100m離れた常照寺に到着
 12時頃 法要や吉野太夫墓前で供養祭が行われる
 13時頃から 島原太夫による舞の奉納が行われる

 茶席三席(野点、遺芳庵の茶席、煎茶席)と点心席(蕎麦)も行われている
 野点席では、午後からは、島原太夫の奉仕もある

【その他】

 <二代目 吉野太夫
 江戸時代の初期、六条三筋町(後の島原)の遊郭「扇屋」で天下の名妓と評される
 教養が高く、和歌、連歌、俳句、書、茶道、華道、音曲、囲碁、双六など諸芸に優れており、
「三筋町七人衆の筆頭」「寛永三名妓」などと評される

 1631年(皇紀2291)寛永8年
 26歳のときに、千三百両で灰屋紹益に身請けされ、灰屋紹益の親の許しが得られず駆け落ちしたといわれる
 1643年(皇紀2303)寛永20年
 38歳の若さで死去し、灰屋紹益は、恋慕のあまり遺灰を呑みほして歌を詠んだといわれる
 「都をば花なき里となしにけり吉野の死出の山にうつして」

 <常照寺
 吉野太夫が開山の日乾上人に帰依する
 吉野太夫のお墓がある

 <吉野門>
 吉野太夫が、私財を投じて常照寺に寄進した朱塗りの門
 吉野門前の参道には、染井吉野の桜が植えられている

【常照寺へのアクセス】

 市バス 源光庵前 徒歩約5分

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