夕霧供養(ゆうぎりくよう)は、江戸時代の名妓(めいぎ)夕霧太夫(ゆうぎりたゆう)を偲ぶ供養祭
夕霧太夫のゆかりの清凉寺で、現役の島原太夫を招き、法要が行われる
<法要>
清凉寺の本堂
初代の夕霧太夫の供養法要が、
現役の島原太夫、2名の禿(かむろ)を招いて行われ、本堂内で奉納舞が行われる
<太夫道中(たゆうどうちゅう)>
本堂前から山門まで
現役の島原太夫による太夫道中が行われ、内八文字でゆっくりと練り歩く
先に2人の禿(かむろ)が歩き、後ろには、道中傘(どうちゅうがさ)を差し掛けるお供の者を従える
その後、夕霧太夫のお墓まで道中し、花を供えてお参りをされる
島原太夫らは、その後、嵐山で行われている「嵐山もみじ祭」に出席される
夕霧太夫(ゆうぎりたゆう)は、島原に属した太夫
音曲・舞踊・茶道・華道・歌道など、あらゆる技芸に通じ、美貌で大阪髄一の人気を集めた
「太夫」とは、最上級の遊女で、芸事だけでなく武家・公家・上層町人の相手を務めるだけの
教養や美貌、金や権力に媚びない資質も必要としたといわれる
生年不詳
没年:1678年(皇紀2338)延宝6年1月7日
本名:照(てる)
島原「扇屋」の遊女となり、
後に、扇屋の大坂新町廓への移転と一緒に移り、京の吉野太夫と並び大阪髄一の太夫となる
20代の若くして病死してしまう
亡くなった日は「夕霧忌」として俳句の季語にもなっている
お墓は、大阪の浄国寺・清凉寺・徳島・和歌山にもある
<浄瑠・歌舞伎>
夕霧太夫の死後、夕霧とその愛人 藤屋伊左衛門とを主人公とする作品が多く作られる
近松門左衛門の浄瑠「夕霧阿波鳴渡」、浄瑠「廓文章」、
歌舞伎「夕霧名残の正月」「夕霧七年忌」などがある
<夕霧文「待つ春」>
「おなつかしき折から よふぞ御しめし・・・」
これを着物の袖などに縫い込んだり、箪笥にいれておくと生涯衣類に不自由しないといわれる
<歌舞伎銘菓「夕霧」>
1947年(皇紀2607)昭和22年
井筒八ツ橋本舗の5代目 津田佐兵衛が、何か歌舞伎にちなんだお菓子をと、歌舞伎銘菓「夕霧」を考案した
「廓文章」の舞台で、藤屋伊左衛門の持つ編笠紋様に生八ツ橋を仕立て、その中に小倉餡を包みこんだ
菓子箱の掛け紙には、伊左衛門の舞台衣裳である紫の染め分け紋様を取り入れ、
夕霧太夫の「待つ春」の文が添えられている
<夕霧大夫遺跡>
清凉寺の西に石碑が立つ