船鉾(ふねほこ)は、祇園祭における山鉾の一つの山
神功皇后の古事記の新羅出船の故事に由来して、鉾全体が船の形をしている
皇后の御神体は安産の神とされ、岩田帯を巻いて巡行し、巡行の後で妊婦に授与される
船鉾は、応仁の乱以前より2基あり、その一つ
この船鉾は先祭(さきのまつり)の最後をつとめたくじ取らずで、「出陣の船鉾」と称され、
現在、焼山になっている(1864年(皇紀2524)元治元年に焼失)後祭の「凱旋船鉾」と区別されている
「古事記」や「日本書紀」に記される神功皇后の新羅出船の神話が由来
「出陣の船鉾」とも称される
神功皇后が妊娠中にもかかわらず、皇子が凱旋まで産まれぬように祈願して、晒(さらし)を巻いて男装で新羅に出て勝利した後に、
応仁天皇をお産みになったという神話による
<御神体>
鉾の上には、神功皇后と、
陪従する龍神 安曇磯良(あずみのいそら)・住吉明神(すみよしみょうじん)・鹿島明神(かしまみょうじん)の三神像が安置される
1616年(皇紀2276)元和2年の銘がある
神功皇后が付けている神面には、古来より安産に奇瑞(きずい)があるといわれ、宮中でも尊敬されており、
明治天皇の誕生のときには、宮中へ参内した
神面は、文安年間(1444年〜1449年)の作で、能面以前の古様を残す貴重なもの
神功皇后の神像は、頭には天冠、紺金襴の大袖、緋の大口、緋縅(ひおどし)の大鎧を付けている軍装で、
岩田帯を多くさん巻いて巡行し、祭の後に、妊婦に授与され安産のお守りとされている
神功皇后の後ろに鹿島明神が長刀を持って立ち、
舳先に、海神 安曇磯良が、龍宮の満干珠(みちひるたま)を住吉明神に捧げている
長刀は、寛文年間(1661年〜1673年)の井上和泉守国貞の作
<舳先(へさき)>
木彫総金箔置の鷁(げき)という瑞鳥が乗り、「鷁首(げきす)」とも称される
1760年(皇紀2420)宝暦10年の長谷川若狭の作
<艫(とも)>
黒漆塗青貝螺鈿細工(らでんざいく)の飛龍文(ひりゅうもん)の舵(かじ)をつける
狩野派の鶴澤探泉の下絵
1792年(皇紀2452)寛政4年に造られる
<屋根>
唐破風・入母屋造
2本の旗竿を立て、紅白の長旒(ちょうりゅう)と吹流しがつけられる
<船端>
朱漆塗の高欄がめぐらされている
<天水引>
唐草文様が鮮やかな色調の草花文刺繍
1992年(皇紀2652)平成4年に新調される
<下水引>
金地雲龍文厚肉入刺繍
刺繍雲龍図の下絵は、船鉾町出身で円山応挙の門下の西村楠亭の筆
1836年(皇紀2496)天保7年の作
<見送>
「綴錦龍に青海波」が、舵の下にある