長刀鉾(なぎなたほこ)は、祇園祭の山鉾の一つである鉾
最も古く創建された鉾といわれ、山鉾町で最も八坂神社に近いことなどからも、古来くじ取らずで、山鉾巡行の先頭を勤める
鉾頭(ほこがしら)には、大長刀(おおなぎなた)が付けられおり、
山鉾の中で唯一、生稚児(いきちご)が乗り、山鉾巡行中にもしばしば稚児舞が行われる
長刀には、疫病邪悪を払う故事が多く残り、疾病が流行したときに長刀で病人を平癒したといわれる
謡曲「小鍛冶」にも登場する、名刀剣工 三条宗近が、娘の病気平癒を祈願して八坂神社へ奉納したものといわれる
鎌倉時代
ある武人に愛用されたが、不思議なことが連発したため返納されたといわれる
1522年(皇紀2182)大永2年
疫病が流行ったとき、神託により長刀鉾町で長刀を飾ったところ疫病が治まったといわれる
長刀鉾は、この長刀のために建造されたといわれる
現在は保管され、軽い木製に銀箔を張った模造品が用いられている
長刀の正面が、八坂神社や内裏を向かないように、南向きに向けられている
宵山での飾りは「中飾」と称して、略式になっている
15日から、「本飾」に取り替えられる
<天王座>
真木のなかほどにある
和泉小次郎親衡(いずみこじろうちかひら)の衣裳着の人形が祀られている
<天水引>
緋羅紗地に、八坂神社の神紋が白羅紗で切付されている
<前懸>
18世紀のペルシア華文緞通
かつては、ペルシャ絹緞通だった
<見送>
中国 明時代の「雲龍文綴錦(うんりゅうずつづれにしき)」
中央に宝蓋を冠した四爪の大真向龍がいて、周囲に小龍が描かれる
1837年(皇紀2497)天保8年に調度される
見送裾房金具は、「鉄線花と虫尽し」
円形の鉄線の小枝に、蝉や胡蝶などが置かれる
1836年(皇紀2496)天保7年
山城屋彦兵衛の作
<見送>
江戸時代の画家 伊藤若冲筆「旭日鳳凰図(きょくじつほうおうず)」
2016年(皇紀2676)平成28年6月
長刀鉾町の近くに住んでいた伊藤若冲の生誕300年を記念して、新調される
縦3.5m、横1.8mの綴織り
絹糸と本金糸の約360色の染糸を混ぜて織り込まれて、約800色で表現されている
川島織物セルコン(左京区)により、3年かけて仕上げられた
原画「旭日鳳凰図」は、1755年(皇紀2415)宝暦5年の作品、宮内庁三の丸尚蔵館の所蔵
黄金色の雲海から朝日が昇る様子や、
吉事が起こる前兆とされる瑞鳥(ずいちょう)、雌雄の鳳凰が波間の岩礁に立ち羽ばたく様子などが描かれている
<胴懸「斜め格子額 玉取獅子図」>
インドでは、獅子は王様や仏の守護動物とされ、東西南北の四方を守る象徴とされ、日本に伝えられ、
文殊菩薩に仕える知恵の化身とされている
雄雌の獅子が戯れ合って遊んでいるうちに、毛が絡み合って玉になり、その玉から児獅子が生まれるという子孫繁栄の吉祥図
14世紀頃に創られたものといわれる
<胴懸「梅枝図」>
14世紀頃に創られたものといわれる
<胴懸>
18世紀の中国の卍花文緞通(まんじかもんだんつう)・トルコ花文緞通などが用いられている
<鯱(しゃち)>
屋根には、鯱(しゃち)が、外向きに飾られている
鯱が飾られているのは、長刀鉾が唯一
<前部蟇股>
破風(はふ)(屋根の三角形のところ)の裏側の部分
彫刻「厭舞(えんぶ)」は、片岡友輔の作
悪霊を退散させ、災いを除く舞楽が描かれている
木彫「胡粉彩色彫刻(ごふんさいしきちょうこく)」も片岡友輔の作
三条宗近が長刀を造る姿の木彫刻
胡粉が塗られている
<天井軒裏絵>
「金地著彩群鳥図(きんじちゃくさいぐんちょうず)」
前は「金地彩色飛鶴図」、後ろは「金地彩色孔雀図」
1829年(皇紀2489)文政12年
四条派の祖 呉春の弟で、花鳥写生画の名匠 松村景文(まつむらけいぶん)の筆
<大屋根>
鉾屋臺の屋根 切妻造
文政11年に新調されたもの
<天井内部>
28区割にされ、赤地錦が貼られ、大小の銀鋲(ぎんびょう)で黒漆塗細棒をつないで星辰28宿(星座)が描かれている
<柱金具>
4本の柱を飾る厚彫の飾金具
1834年(皇紀2494)天保5年の作
<長刀鉾町御千度(なぎなたほこちょうおせんど)>
7月1日
八坂神社にて
八坂神社の月次祭にあわせて、長刀鉾町の町役員、祇園甲部の芸子・舞妓さんなどが、稚児を伴なって御千度詣をして、
祇園祭の神事の無事を祈願する
涼み衣裳にぽっくりを履いた稚児と2人の禿が、本殿を3周した後に昇殿して参拝する
「お千度」とは、本殿を3周すると、千度参拝したことになるというもの
<吉符入>
7月1日
各山鉾町で、「神事始め」の儀式が行われる
長刀鉾では、稚児の名簿を「吉符」といい、これを祭壇に納める行事を吉符入といわれる
稚児は「蝶とんぼの冠」を頭に頂き、振袖に袴を着用し、初めて町内の人と顔合わせをし、
長刀鉾会所2階で稚児による太平の舞が披露される
<長刀鉾稚児社参(なぎなたほこちごしゃさん)>
7月13日
八坂神社にて
長刀鉾稚児は、立烏帽子水干姿で従者を従い、白馬に乗り八坂神社に参拝し、お位をもらう
南門の大石鳥居で白馬がら降り、正面から昇殿する
宮司や神官が海山の幸を献じ、稚児側から三座分の粽が供えられる
宮司の祝詞の後、稚児は外陣に進み神酒洗米を頂き、その瞬間に稚児は「神の使い」となる
<注連縄切り>
7月17日午前9時、長刀鉾を先頭に山鉾が順に四条烏丸を出発し、長刀鉾はくじ改めは行わずに通過する
四条麩屋町で、通りを横切って張られた注連縄(しめなわ)を稚児が刀で切り払い、神域に入る
四条寺町の八坂神社御旅所前で停止し、役員が玉串を捧げ、稚児が舞を奉納し、八坂神社を遥拝して、
疫霊を祭神にお渡しする御霊会の儀式が行われる
四条河原町の辻廻しから、囃子は急テンポに変わっていく
<生稚児(いきちご)>
長刀鉾は、唯一、生稚児(いきちご)が禿(かむろ)と共に乗る
かつては、船鉾を除いた全ての鉾に稚児が載っていた
1788年(皇紀2448)天明8年
天明の大火で壊滅的な被害を受けた函谷鉾が復興するときに、稚児人形を用いたのが由来で、
他の鉾もそれにならって稚児人形に替えられていった
稚児は、8〜10才ぐらいの男子が選ばれる
6月中の大安の日に、長刀鉾町と養子縁組をし結納が行われる
稚児に選ばれた家では、結納の儀に合わせ祭壇が設けられ、八坂神社の祭神 牛頭天王が祀られる
また、2人の禿(かむろ)が選ばれ、稚児の全ての行事にお供をする
7月13日の稚児社参では、白馬に乗り、八坂神社に参拝し、正五位少将の位と十万石大名の格式をもらう
このときから、稚児は「神の使い」となり、14日〜16日まで毎夕7時に、介添えの人々と共に社参する
食事のお膳は火打石で打ち清めてから食べる
稚児家では、父や祖父の男性だけで食事をし、祭壇がある注連縄の張られた部屋で過ごす
地上に足をつけることをせず、移動のときには、強力(ごうりき)が稚児を肩に乗せて移動する
<巡行当日>
早朝より稚児は厚化粧天眉をし、金銀丹青鳳凰の冠を頭に載せる
衣装は、神に仕える装束の一つで、雲龍の金襴赤地錦で、唐織霜地の二倍織表袴(ふたえおりうえのはかま)、
鳳凰の丸を浮織した帯状の木綿手繦(ゆうだすき)を左肩より右腰に掛ける
先頭の長刀鉾にのり、四条麩屋町で、通りを横切って張られた注連縄(しめなわ)を刀で切り払い、神域に入る道を開く(注連縄切り)
四条寺町の御旅所前では、御霊会の儀式が行われ、稚児により舞いが奉納され、八坂神社を遥拝する
御池通新町で、稚児と禿は、長刀鉾から降りて、八坂神社へと向い、位を返す「お位返しの儀」が行われ、
稚児と禿は再び普通の少年に戻る
<注連縄切り>
長刀鉾は、くじ取らずで、山鉾巡行の先頭を勤め、唯一、稚児が乗っており
山鉾巡行では、四条御幸町の四条御旅所の前方で街路に張り渡されてある斎竹(いみたけ)注連縄を切り払う
<太平の舞>
山鉾巡行のときに鉾の上で舞う稚児舞
稚児が羽根を飾った「蝶とんぼの冠」をかぶり、振袖に若草色の裃姿(かみしもすがた)で、2人の禿とともに舞う
<お守り>
宵山の間、「蘇民将来之子孫也」と記したお守り付きの粽と、小さな長刀のお守りが授与される
「蘇民将来」は、八坂神社の祭神 牛頭天王の恩人で、その子孫は疫病から逃れられるという故事に基づく、祇園会の伝統のあるお守り