芦刈山(あしかりやま)は、祇園祭における山鉾の一つの舁山
謡曲「芦刈」の、妻と離れて難波の浦で芦を刈る老翁が、数年後に妻との再会をはたす夫婦和合の姿が表されている
<人形(重要文化財)>
御神体
頭に「天文六年酉年六月七条沸師運慶之玄孫式部卿法印康運作」の墨書銘がある
1537年(皇紀2197)天文6年
七条仏師 運慶の末弟 運助の7代目にあたる康運の作
2000年(皇紀2660)平成12年7月2日
目頭に亀裂が入ってきため永久保存することになり、
江戸時代の複製品と代替されることになり、新旧御頭の移行儀式「御頭改め」が行われる
2002年(皇紀2662)平成14年3月8日
財団法人美術院にて、新旧の御頭と人形本体の修理が完成する
御神体は、老翁の姿で、能衣装に水衣をはおり、懐に中啓(ちゅうけい)(末広の扇子)、右手に鎌、左手に芦を1本持ち
芦原に立つ姿
緋羅紗(ひらしゃ)をかけた山籠(やまかご)に真松を立て、梢近くに掛けた金色の三日月を背景に秋の薄暮れを表している
<御神体の古衣装(重要文化財)>
綾地締切蝶牡丹文片身替小袖(あやじしめきりちょうぼたんもんかたみがわりこそで)
1589年(皇紀2249)天正17年の銘があり、山鉾の中で最古の衣装
<前懸>
1986年(皇紀2646)昭和61年
山口華楊原画のライオンを描いた段通「凝視」に新調される
<旧前懸>
風景図の毛綴(タペストリー)
<胴懸>
錦織「豊公獅噛鳥獣文様」
1990年(皇紀2650)平成2年の新調
<旧胴懸>
尾形光琳の六曲屏風を元にした綴織「燕子花図(かきつばたず)」
1993年(皇紀2653)平成5年に新調される
<旧胴懸>
雲龍文様の刺繍や、
江戸時代の鶴亀蜀紅文絲錦裂(つるかめしょくこうもんいとにしきぎれ)
<見送>
山口華楊画の綴織「鶴図」
1985年(皇紀2645)昭和60年に新調される
<旧見送>
中国製の花鳥刺繍
<欄縁の彫金飛雁の錺金具(かざりかなぐ)>
1903年(皇紀2563)明治36年
川辺華挙下絵による藤原観教の作
<繻珍獅子蜀紅文小袖(しゅちんしししょくこうもんこそで)>
織田信長から寄進されたものといわれる
謡曲「芦刈」は、世阿弥の作といわれる
摂津国 難波に住む貧しい夫婦
貧乏のあまり、妻が、宮仕えをするために都へ出ることになり、
夫は一人寂しく難波の浦で芦を刈って売っていた
3年後に、夫が気掛りな妻が訪ねてくると、夫は隠れてしまうが、妻は夫を追いかけて語り合い、やがて妻は、
夫に衣類を与えて都へ戻っていく
謡曲の夫は「若き男」と記されているが、芦刈山の御神体は老翁の姿
謡曲での季節は、春だが、芦刈山では秋の風情を表しており、「芦刈」は秋の季語となっている
「祇園本縁録」によると
1441年(皇紀2101)嘉吉元年
6代将軍 足利義教が、しばらく絶えていた祇園会の復興を促して、山鉾等を創建・再興させた
「祇園社記」によれば
「応仁の乱前分」には、鉾の数14基、山の数49基が記されており、
「あしかり山 四条猪熊」・「あしかり山 錦小路東洞院」と記され、現在は山が立たない通りに「あしかり山」が2つあり、
「住吉山 綾小路、油小路と西洞院の間」と記され、現在の芦刈山町に「住吉山」があったとされる
「応仁の乱後再興」には、
「綾小路、西洞院と油小路の間 あしかり山手かき」と記されている
謡曲「高砂」は、住吉の尉(じょう)と高砂の姥(うば)が、海山千里を隔てて仲むつまじい様子を謡い、
芦刈山の老翁の顔は、その住吉明神の尉面にとても似ているといわれ、応仁の乱後の山鉾復興のときに、
「住吉山」の御神体が「芦刈山」に受け継がれたともいわれる
<山一番>
くじ取り式が京都市役所で行われ、くじ取らずの先頭を行く長刀鉾に続く、山一番となる
2007年(皇紀2667)平成19年7月2日
2009年(皇紀2669)平成21年7月2日