白楽天山(はくらくてんやま)は、祇園祭における山鉾の一つの舁山
中国 唐の詩人 白楽天が、道林禅師(どうりんぜんじ)に仏法の大意を問うところを表している
中国 唐の詩人 白楽天が、道林禅師(どうりんぜんじ)に仏法の大意を問うたところ
七仏通戒偈の最初の句「諸悪莫作・衆善奉行(悪い行いをせず善い行いをしなさい)」と答えた場面を表している
白楽天は、幼い頃から詩に才能のあり、15才で「野火焼き尽さず、春風吹いて又生ず」の名句を詠う
35才での「長恨歌(ちょうごんか)」、45才での「琵琶行」が著名
道林禅師との問答は、多くの書物に記載されている
<問答>
有能な官僚でもあった白楽天が、視察官として西湖の北の山に赴き、
松の老木の上に住む名僧 道林禅師を訪れて、「仏法の大意は如何に?」と問う
道林禅師は、「諸悪莫作 衆善奉行」と簡単に答える
白楽天は、呆れて「そんなことは3歳の子供でも知っています」と言うと、
「しかし80歳の老翁でも行いがたいことです」と言われる
白楽天は、道林禅師の徳に感服して帰ったという
<御神体(人形)>
白楽天は、黒い頭髪で、学者・官吏風で、やや下向きで、笏(しゃく)を持って立っている
金地小袖に浅葱色差貫(さしぬき)唐織白地狩衣(かりぎぬ)の衣裳に唐冠をかぶっている
道林禅師は、小袖に緞子地(どんすじ)の紫衣(しえ)を着け、金襴の掛絡(から)をかけ、
藍色羅紗(あいいろらしゃ)の帽子(もうす)をかぶり、松の枝の上に座って座禅を組んでいる
右手に房付の払子(ほっす)を持ち、左手に手巾(てふき)と珠数を懸けて払子の毛先を握っている
1788年(皇紀2448)天明8年 天明の大火
人形が焼傷し復元されている
<真松>
道林禅師が、松の巨木の上に住んでいることから、山の中で一番高い真松
<前懸>
1808年(皇紀2468)文化5年に新調された紺地雲龍文刺繍裂と、
1860年(皇紀2520)万延元年に、蟷螂山より買受けたベルギー製毛綴(タペストリ)の3枚継ぎ
毛綴は、16世紀(1580年から1620年頃)にベルギー ブリュッセルの職工 ニケイズ・アエルツによって
製作された5枚シリーズの5枚目
トロイ城陥落のときアイネイアスが父親を救出する場面を描いた「トロイア陥落図」
大津祭の月宮殿山見送と、大津祭の龍門滝山見送りとは、元は一枚のタペストリーだった
5枚シリーズの2枚目は、鶏鉾・霰天神山に、3枚目は、鯉山に現存している
<胴懸>
右胴懸は、水引と同様にフランスより購入した17世紀ベルギー製の毛綴(タペストリ)「女狩人図」
左胴懸も同じく、「農民の食事図」
1978年(皇紀2638)昭和53年に購入新調された
旧胴懸は、雲龍文の綴錦
<見送>
表が「鳳凰龍麒麟図」で、裏に「楼閣山水人物図」の油絵が描かれた綴錦
裏にも描かれているのは山鉾唯一
1807年(皇紀2467)文化4年に購入され、1997年(皇紀2657)平成9年に修理された
<旧見送>
「百児喜遊図」綴織
1864年(皇紀2524)元治元年に寄贈されたもの
染織作家 山鹿清華(やまがせいか)の作の「北京万寿山図」綴織
万寿山は北京の西北にある清朝の離宮
1953年(皇紀2613)昭和28年に新調される
画家ユエの下絵で、フランスで18世紀に製作された「水辺の会話」のゴブラン織
1978年(皇紀2638)昭和53年に購入された
<お守り>
白楽天は、高名な詩人で有能な官僚でもあり、悪疫除けと学業成就のお守りが授与される
<町名>
江戸時代中期まで
茶人 松本宗悟の屋敷があったので「松本町」と称されていた
<前懸の毛綴(タペストリ)の経緯>
16世紀(1580年から1620年頃)にベルギー ブリュッセルの職工 ニケイズ・アエルツによって製作された5枚シリーズ
江戸時代初期に輸入されたものといわれる
5枚のうち2枚は、会津藩から加賀藩・江戸幕府へ
文化・文政年間(1804年〜1830年)の頃
残りの3枚が、会津藩から天寧寺で、換金のため売却され、その1枚が鯉山に、他の2枚も裁断され、それぞれ買いとられた
1枚目:「トロイア王子パリスとスパルタ王妃ヘレネ−の出会い」
金沢前田育徳会の壁掛
2枚目:「トロイア王子へクトールと妃アンドロマケー、息子アスチュアナクスの別れ」
鶏鉾の見送幕・霰天神山の前懸・長浜曳山祭の鳳凰山の見送幕
3枚目:「トロイア王プリアモスと王妃カペーの祈り」
鯉山の見送幕・前懸・胴懸・水引
4枚目:「アキレウスのもとにヘクトールの遺体返還を求めるプリアモス王」
東京芝増上寺の壁掛だったが、1909年(皇紀2569)明治42年に焼失
5枚目:「トロイア陥落図」
白楽天山の前懸・大津祭の月宮殿山の見送幕・大津祭の龍門滝山の見送幕