橋弁慶山(はしべんけいやま)は、祇園祭における山鉾の一つの山
謡曲「橋弁慶」にちなみ、牛若丸と弁慶が五条大橋で戦う姿を表している
他の山にはある山籠や真松がなく、山の上が舞台となっている
牛若丸の人形が足駄の前歯だけで支えられている人形組は、浄妙山とともに精緻な匠の技術で製作されている
舁山(かきやま)で唯一のくじ取らずの山
<謡曲「橋弁慶」>
五条大橋の上で、牛若丸(源義経)と武蔵坊弁慶が闘う様子
延暦寺西塔の武蔵坊弁慶は、西洞院松原の五条天神に丑の刻詣りをしていた
ある日、太刀持ちが「五条大橋で、少年が蝶や鳥のように斬りかかるので、今夜は止めましょう」というと、
「聞き捨てならない」と、敢えて出かけていく
弁慶は、鎧姿で長刀を持ってゆうゆうと五条大橋を進むと、少年が近づいてくるが、弁慶は素知らぬ顔で通り過ぎようとすると、
少年は長刀の柄元を蹴上げ、弁慶が斬りかかると、牛若丸も太刀を抜き、打ち合いになる
弁慶が振り下ろせば、牛若丸は右へ左へ、上を払えば下に、下を払えば跳び上がり、牛若丸は橋の欄干を自在に移り、
弁慶は唖然とさせられたといわれる
当時の五条通は、現在の松原通とされる
橋弁慶山には、他の山にはある山籠や真松、朱傘がなく、山の上を舞台として風流の趣向を見せていた古式の山
五条大橋の上に、牛若丸は、左足の下駄の前歯一枚で欄干の擬宝珠(ぎぼし)の上に飛び上がり、右手に太刀を持っており、
弁慶は鎧姿で長刀を斜めに構えている
四方全てが正面に見える八方正面の特異な造りになっている
前懸に合わせてた後懸があって、金幣も前後二対同じようについている
<武蔵坊弁慶>
褐色の顔に鉢巻をしめ、眉を吊り上げ目を開いている僧兵姿
黒皮縅(おどし)の鎧を着て、皮付鎖籠手に朱色袴、立挙(たてあげ)脛当をつけ、手首と足首に太い縄を巻き結んで、
茶色足袋に草履を履き、白縮緬の腹帯を巻いている
刃渡二尺三寸五分の黒漆塗長刀を持ち、朱塗蛭巻脇差と1.8mの大太刀を持っている
1563年(皇紀2223)永禄6年の平安大仏師 康運(こううん)の銘がある
<弁慶の力縄(ちからなわ)>
武蔵坊弁慶の手首と足首に太い綱を一巻きされ大きく結びしめている
毎年、新しく縄が綯かれ、巻きつけられる
「力縄」には、弁慶の勇敢な姿にあやかり、心身ともに丈夫であることが祈願されている
<牛若丸(源義経)>
右手に太刀を持ち、橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし)の上に、左足の足駄(あしだ)前歯だけで立ち、右足を後に曲げ跳ね上げている
髪を巻き上げ、薄茶地の長袖、紫地の半切袴、萌黄地紗神紋笹龍胆文様(りんどうもんよう)の長絹を重ね、脛当を着け、
緋房付の太刀を右手に抜き放ち、左手は5指を開いて前方へ突き出している
牛若丸の人形は、足駄の一本の金具だけで支えられている
1563年(皇紀2223)永禄6年の平安大仏師 康運(こううん)の銘がある
足駄金具には、1537年(皇紀2197)天文6年の美濃国住人右近信国の銘がある
<牛若丸の太刀>
牛若丸が、右手に持つ太刀は、盛光 伊賀守金道または近江守久道の作といわれる
刀のサイズは、刀長74.8cm、反り2.8cm
現在のものは、誹房附模品であり、京都国立博物館に収蔵されている
<鎧(重要文化財)>
黒韋威肩白胴丸大袖付(くろかわおどしかたじろどうまるおおそでつき)
室町時代のもの
収蔵品: 胴丸(大袖付)・杏葉(ぎょうよう)・喉輪・草摺(くさずり)・脇曳(わきびき)・
籠手(こて)・臑宛(すねあて)・宝幡佩楯(ほうどうはいだて)
かつて、実際に弁慶人形に使用していたといわれる
現在は、京都国立博物館に収蔵されている
胴丸は、胴回りが一連となって引き合わせを右脇に設け、草摺(くさずり)が細かく分かれ、動きやすくした甲冑(かっちゅう)
黒漆を塗って盛り上げた革と鉄の小札(こざね)を交互に重ね合わせ、胴・袖の上方は白糸で、下方は黒韋で縅(おど)している
広い胸板や、盛り上がった小札、幅の狭い縅毛、獅子牡丹文の絵韋(えがわ)などが特徴
韋小札(かわこざね)は、撓め革(いためかわ)で作った鎧(よろい)の小札
大袖(おおそで)は、鎧の綿上(わたがみ)に結び付け、上腕部に垂らして盾のかわりとされる
縅し(おどし)は、鎧の札(さね)を革や糸でつづり合わせたもの
草摺(くさずり)は、鎧の衡胴(かぶきどう)から垂らし、下腹部・大腿部を保護するもの
獅子牡丹は、獅子の勇姿に花の王である牡丹を配した図柄
絵韋(えがわ)は、文様を染めつけた革
杏葉(ぎょうよう)は、鎧の付属具の一つで、染め革などで包んだり漆をかけたりした鉄板
<五条大橋>
黒漆塗反り橋
左右4本ずつ親柱があり、金鍍金の擬宝珠がついている
右側3番目に、牛若丸の左足の高下駄の前歯の鉄串が挿入され固定される
<前懸>
椿石霊鳥図綴錦(ちんせきれいちょうずつづれにしき)
原画は、富岡鉄斎の作の清荒神所蔵の衝立で、原画と同寸法織成されている
1983年(皇紀2643)昭和58年に新調されたもの
<旧前懸・後懸>
中国明時代の雲龍波涛文様(うんりゅうはとうもんよう)の綴錦(つづれにしき)
<胴懸>
賀茂葵祭礼行列図(かもあおいさいれいぎょうれつず)の綴錦
円山応挙の下絵
葵祭を絵巻風に、牛車・近衛使・検非遣使などが描かれている
<水引>
百児喜遊図(ひゃっこきゆうず)の綴錦
下部に、緋地に花鳥の円形刺繍が並んでいる
<欄縁>
波と千鳥と芦の高浮彫で、前後を凹形にして橋の端を表している
<隅房金物>
上段は雲形、下段は龍・虎・雀・亀の方位四神の肉彫
<狂言「鬮罪人(くじざいにん)」>
室町時代の山鉾町の人々が、その年の祇園祭の趣向を相談する話
当時は、山鉾の趣向が固定していなく、毎年、新しく創作されていたといわれる
橋弁慶山と鯉山が登場し、当時すでに両山が存在していたと思われる
<くじ取らず>
1500年(皇紀2160)明応9年
くじ取りの最初から、くじ取らずの山として、後祭の先頭を巡行していた
1872年(皇紀2532)明治5年以降
囃子のある曳き山の北観音山が復帰したとき先頭を譲り、次の二番目に巡行することになる
舁山(かきやま)では唯一のくじ取らず
巡行時のくじ改めのとき、奉行の前で山をまわさない特別扱いになる
<重要有形民俗文化財>
1962年(皇紀2622)昭和37年5月23日指定
鉾7基・曳山3基・舁山19基の一つ
<重要無形民俗文化財>
1979年(皇紀2639)昭和54年2月3日指定
橋弁慶山・霰天神山・山伏山・北観音山・南観音山・放下鉾・役行者山の7山鉾町内
<舁き初め(かきぞめ)>
7月14日午前11時ごろ
山建てが終了した後、橋弁慶山が町内を1周する
<町名>
戦国時代の天文年間(1532年〜1555年)
町内に刀鍛冶 右近信国が住んでいたので「信国町」と称されていた
江戸時代初期の天和年間(1681年〜1684年)頃から
「橋弁慶町」と改められたといわれる