浄妙山(じょうみょうやま)は、祇園祭における山鉾の一つの舁山
平家物語の宇治川の合戦を表している
人形の上に人形を乗せた2体の人形組は、橋弁慶山とともに精緻な匠の技術で製作されている
平家物語の宇治川の合戦
1180年(皇紀1840)治承4年5月
平清盛についていた源頼政は、後白河法皇の第2子以仁王を奉じて、源氏再興を企て謀反を起こす
が、事前に露見し、以仁王は三井寺に逃れ、
源頼政は、平等院に逃げ込み、追手を防ぐため宇治橋の橋板を取り外した
平家方の2万8000の軍勢は、押し進んだ先陣が川に落とされ、先に進むことができず、橋の両端の双方から
矢が射られ戦いが始まる
源氏方の三井寺の荒法師 筒井浄妙(つついじょうみょう)が、細い橋桁を渡り一番乗りをしようしたが、
一来法師が、その頭上を飛び越え「悪しゅう候、御免あれ」と進み出て、敵陣への先陣をとってしまったという
筒井浄妙は、黒装束に、矢を24本をいれた黒の箙(えびら)を背負い、塗籠籘(ぬりごめどう)の弓に、白柄の大長刀を持つ
弓で12人を射抜き、11人に負傷させ、長刀で6人を倒し、太刀を振り回し、細い橋桁を進み、
対岸の平家方まで渡ろうと奮闘していた
しかしその後、浄妙坊は、63本の矢が刺さり、何とか平等院門前に戻り逃げ延びたといわれる
三井寺の阿闍梨慶秀(あじゃりけいしゅう)に使えていた一来法師は、対岸の敵陣へ何とか乗り込みたかったが、
細い橋桁の前で奮戦する浄妙坊が邪魔で前へ出られず、苦慮していた
そこで、身軽さを活かして、細い橋桁の上の浄妙坊の兜上に手を掛けて飛び越えて、一番乗りを果たしたが、
やがて討ち死にしてしまう
真松が立てられず、朱傘が大きく、後部両側に柳を立てて橋の川辺の風景を表している
<御神体(人形)>
橋桁の上に立つ僧兵 筒井浄妙と、その頭上を飛び越える一来法師
一来法師は、浄妙坊の頭に乗せた左手一本で、木片の楔(くさび)で支えられている
2体の人形は、人間の形をした自然木を骨組に使い、揺れによる反動を抑えるために、浄妙坊は足首以下が
山胴内に深く固定されている
筒井浄妙は、強面の顔で、金襴の長範頭巾をかぶり、白鉢巻を締め、茶地金襴の鎧下、金鎖籠手、鎧を着て、大長刀を持っている
一来法師は、真剣な面持ちの白い顔で、金の風折烏帽子に白鉢巻、金小札の鎧、緋羅紗の籠手、金塗鞘の大小を腰に、
右手で長刀を持ち、左手は浄妙坊の兜の上にある
<黒韋縅肩白胴丸(くろかわおどしかたじろどうまる)(重要文化財)>
浄妙坊が着用していた鎧(現在は複製を着用している)
大袖喉輪附、鉄製脛当
室町時代の作
<橋桁>
黒漆塗、擬宝珠(ぎぼし)付
数本の矢がささり戦さの凄まじさが表されている
<前懸>
中国 明代の仙人桃源境図
1993年(皇紀2653)平成5年に修繕されている
<胴懸>
1985年(皇紀2645)昭和60年から
長谷川等伯筆の「柳橋水車図(りゅうきょうすいしゃず)」の綴錦にかえている
<旧胴懸>
ビロード織の仙人琴棋書画(きんきしょが)
浄妙山が「ビロード山」と称されていた由来の胴懸
<後懸>
長谷川等伯筆の国宝障壁画「桜楓図」(智積院)を元にされている
旧後懸は、中国 明代の仙人観瀑図
1993年(皇紀2653)平成5年に修繕されている
<見送>
皆川月華の作の「翔、熊鷹の図」
1984年(皇紀2644)昭和59年の新調
旧見送は、この町に住んでいた本山善右衛門が織った五爪雲龍文の「かがり織」
<水引>
波涛文(はとうもん)の彫刻
<欄縁>
他の山とは異なり、漆塗で水引を兼ねるような木枠にして、高浮彫金塗で宇治川の荒波を表している
<聖護院山伏参詣>
16日
聖護院門跡の山伏約30人が、六角堂を出発し、法螺貝を吹き鳴らし、錫杖(しゃくじょう)を響かせながら、
修験道に縁のある7つの山を巡拝し、御神体の前で般若心経を唱え、巡行の無事や町内の発展を祈願する