鯉山(こいやま)は、祇園祭における山鉾の一つの舁山
中国の故事「登龍門」にちなむ鯉が祀られており、出世開運が祈願される
<中国の故事「登龍門」>
中国 黄河の中流地域「函谷関(かんこくかん)」の上流の霊山に龍門(りゅうもん)という峡谷があった
龍門は、山西省と陜西省(せんせいしょう)の境を南下する峻険な峡谷で、
激流のため普通の魚は登ることができず、そこを登りきれた鯉は霊力が宿り龍になるといわれる
その龍門を登りきり龍となった鯉が出世開運の神として祀られたという
この故事にちなみ、難関を突破して出世する事を「登龍門(龍門に登る)」と称されるようになる
中国では、龍は皇帝の象徴とされていた
日本では、江戸時代に、各家で、子供の成長と出世を願い「鯉のぼり」が立てられるようになったといわれる
「登龍門」「鯉の滝登り」「鯉のぼり」「龍門の滝」などは全てこの故事に由来している
室町時代や1500年(皇紀2160)明応9年頃
「龍門の滝山(れうもんのたきやま)」と称されていた
中国 黄河の中流地域「函谷関(かんこくかん)」に関する山鉾に、函谷鉾がある
<御神体(人形)>
1m50cmの木彫の青黒い鯉
龍門の滝を登る鯉の奔放な勇姿を表している
脇から下がる白麻緒は、滝を表している
人物や神像ではなく、生き物が御神体として祀られている唯一の山鉾
名工 左甚五郎(ひだりじんごろう)の作といわれる
八幡山の二羽の鳩も左甚五郎の作
<明神鳥居>
前面に朱塗の明神鳥居が立てられ、額に「八坂神社」と記されている
<社殿>
緑色の羅紗の山洞の奥には、朱塗の切妻造唐破風の小祠が安置されている
祭神 素戔嗚尊が祀られている
素戔嗚尊を祀る山鉾は、鯉山のみ
<欄縁・角金具>
欄縁は、漆塗りに金細工で波涛文様に統一されている
角金具は、波涛の細工がされており、房掛けには千鳥があしらわれている
1889年(皇紀2549)明治22年
名工 村田耕閑の作
<毛綴(タペストリ)(重要文化財)>
1枚の毛綴織を裁断して、前懸・見送・胴懸(2枚)・水引(2枚)に用いられ、鯉山の周囲に飾られている
16世紀(1580年から1620年頃)にベルギー ブリュッセルの職工 ニケイズ・アエルツによって製作された
江戸時代初期に輸入されたものといわれる
5枚シリーズの3枚目の「トロイア王プリアモスと王妃カペーの祈り」
ベルギー王室美術歴史博物館の調査によると
図柄は、紀元前1200年頃のトロイ戦争を記したギリシア詩人ホメロスの叙事詩「イーリアス」の中の一場面
イーリアス物語は、トロイア戦争などを描いた紀元前8世紀頃のギリシアの長編叙事詩
トロイア最後の王 プリアモス王と后が、ゼウスの神に鳥占いを乞うという重要な場面の
「トロイア王プリアモスと王妃カペーの祈り」を描いたものであるといわれている
大工のノミで大小9枚に押し切られ、裏面を名物裂で覆ったため、褪色せずに原作のままの色彩が残っている
16世紀当時と同じ色のタペストリが残っているのは、世界でも唯一、鯉山だけといわれる
中央図柄部と外縁部に裁断され、
中央図柄の左半分強が見送に
中央図柄の右半分弱がさらに上下に裁断され、上半分を左胴懸に、下半分を右胴懸にされている
外縁部の上端一枚を左水引に、下端一枚を右水引に
外縁部の左右端をさらに上下に裁断して、4枚並べるように、左端下を向かって左から1枚目に、右端上を2枚目に、
左端上を3枚目に、右端下を4枚目にしてつなぎ合わせて前懸にされている
現在、京都国立博物館で保管されており、宵山の期間中の町席でのみ鑑賞できる
巡行では、復元新調が用いられる
<前懸(重要文化財)>
タペストリーの風景部分の4ヶ所を縫いあわされている
1992年(皇紀2652)平成4年に復元新調される
<胴懸(重要文化財)>
左面にアポロン像が、右面は女性が供物を供えている姿が描かれている
裁断部分の両側に中国製の四爪龍が縫い合わせてあり、明朝末から清朝初期の婦人官服を切り付けたもので、
絹糸・金糸・孔雀の羽根で作られている
1995年(皇紀2655)平成7年に右胴懸が、
1997年(皇紀2657)平成9年に左胴懸が復元新調される
<水引(重要文化財)>
左面はガーランド模様、右面はギリシア神話の神々が描かれている
1999年(皇紀2659)平成11年に左右水引が復元新調される
<見送(重要文化財)>
2.17m×1.30m
外縁は緋羅紗で、見送金物は、上端に雲を意匠した半楕円形の大きな飾金具、房掛け金具を隠して二羽の鶴と亀の金具が浮き出て、
これに大きい金糸の総角房が附く
1989年(皇紀2649)平成元年に復元新調される
<旧胴懸>
インド更紗のものが保存されている
<山建て>
7月13日の朝より
<毛綴(タペストリ)(重要文化財)の経緯>
16世紀(1580年から1620年頃)にベルギー ブリュッセルの職工 ニケイズ・アエルツによって製作された5枚シリーズ
江戸時代初期に輸入されたものといわれる
5枚のうち2枚は、会津藩から加賀藩・江戸幕府へ
文化・文政年間(1804年〜1830年)の頃
残りの3枚が、会津藩から天寧寺で、換金のため売却され、その1枚が鯉山町に、他の2枚も裁断され、それぞれ買いとられた
1枚目:「トロイア王子パリスとスパルタ王妃ヘレネ−の出会い」
金沢前田育徳会の壁掛
2枚目:「トロイア王子へクトールと妃アンドロマケー、息子アスチュアナクスの別れ」
鶏鉾の見送幕・霰天神山の前懸・長浜曳山祭の鳳凰山の見送幕
3枚目:「トロイア王プリアモスと王妃カペーの祈り」
鯉山の見送幕・前懸・胴懸・水引
4枚目:「アキレウスのもとにヘクトールの遺体返還を求めるプリアモス王」
東京芝増上寺の壁掛だったが、1909年(皇紀2569)明治42年に焼失
5枚目:「トロイア陥落図」
白楽天山の前懸・大津祭の月宮殿山の見送幕・大津祭の龍門滝山の見送幕
<故事>
江戸時代
この町の商家の夫が、苦労して貯めてきた金10両を誤って湖に落としてしまう
裏長屋の鰥夫(やもめ)が、鯉を買って料理すると、お腹の中から10両が出てきた
人のいい鰥夫は、家主がお金を落としたことを知っていたので、すぐに知らせたが、家主は、「その金は、もはや私のものではない」と
受け取らなかった
二人は役所の裁きを受けることになり、役人は、二人の清廉さに感激し、このことを後世に伝えるため、
その金10両で名工 左甚五郎に鯉を彫らせて、祇園祭の山にするよう裁きを下したといわれる
<狂言「鬮罪人(くじざいにん)」>
室町時代の山鉾町の人たちが、その年の祇園祭の趣向を相談する話で、鯉山と橋弁慶山が登場しており、
当時すでに存在していたといわれる
<誉田屋の「鯉の滝登り」の帯>
老舗帯問屋 誉田屋源兵衛(三条通烏丸下ル)
創業270年を記念して、祇園祭の宵山期間中、鯉の滝登りの絵を屋外に展示している
縦約10m、横5m、総勢270匹の鯉が描かれている
壁画画家 木村英輝の作
<ローソク売りの童歌>
鯉山町内の子供たちが、大日如来を祀る祠の前に集まり、ローソク売りの童歌を唄いはじめる
<お守り>
困難を通り抜ければ立身出世の道が開かれる関門「登龍門」にちなみ、立身出世のお守りが授与される