落柿舎(らくししゃ)は、江戸時代前期に活躍した俳人 向井去来が隠棲した草庵で閑居跡
嵯峨野小倉山山麓にあったが、当時の正確な場所は不明
現在地の門前は、生産緑地に指定されている畑が広がり、のどかな田園風景の中に建つわら葺の建物
向井去来は、松尾芭蕉の門人で蕉門十哲の一人
長崎の有名な儒医・天文家である向井元升の次男として生まれ、福岡の黒田家に仕えたが辞め、
松尾芭蕉に弟子入りし俳諧の道に進んだ
現在の庵は、俳人 井上重厚により再建されたもの
保存会ができている
向井去来が庵にいるときには、玄関横の土壁に蓑笠が掛けられて知らされていたといわれ
現在でも、当時のように土壁に蓑笠が掛けられたままになっている
<名前の由来>
「落柿舎ノ記」の中で、
ある商人が、草庵にあった40本の柿の木を立木ごと買い取ったが、その夜中に風が吹き、柿の実が全部落ちてしまい、
慌てて駆けつけた商人に代金を返したという逸話から、「落柿舎(らくししゃ)」と称されるようになったといわれる
<投句箱>
庵に投句箱があり、優秀な作品は俳句誌「落柿舎」に掲載される
<俳人塔>
1970年(皇紀2630)昭和45年
落柿舎11世庵主の工藤芝蘭子(くどうしらんし)が、過去・現在・未来を含めた俳人の供養のために建立した
<釋瓢齋供養塔>
十世庵主 永井瓢齋(ながいひょうさい)の供養塔
永井瓢齋は、落柿舎の昭和復興に尽力した
<「柿主(かきぬし)や 梢(こずえ)は 近きあらしやま」向井去来>
本庵前庭に建つ向井去来の句碑
1772年(皇紀2432)安永元年
俳人 井上重厚(いのうえじゅうこう)により書かれ建立され、洛中第一に古いとされる句碑
井上重厚は、松尾芭蕉の遺徳顕彰に生涯をささげた蝶夢(ちょうむ)の門人であり、荒廃していた落柿舎を再興した二世庵主
松尾芭蕉の墓がある大津の義仲寺 無名庵の庵主も兼ねた
<「五月雨や色紙へぎたる壁の跡」松尾芭蕉>
松尾芭蕉が落柿舎に滞在していた間に著された「嵯峨日記(さがにっき)」の最尾にしるした句
<「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり」高浜虚子>
高浜虚子(たかはまきょし)の生前最後の自筆句碑
1959年(皇紀2619)昭和34年の建立
<「加茂川のはやせの波のうちこえしことばのしらべ世にひびきけり」昭憲皇太后>
昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)が嵯峨天皇の皇女 有智子内親王を称えられた御歌
823年(皇紀1483)弘仁14年
春齋院(さいいん)の花宴の日に、17歳の有智子内親王が即詠で見事な詩をつくられ、列座の文人たちが驚き、
嵯峨天皇も賛嘆せられたといわれ、その名誉を歌われた
1902年(皇紀2562)明治35年の建立
<「十三畳半の落柿舎冬支度」工藤芝蘭子>
堂島の相場師だった工藤芝蘭子(くどうしらんし)は、落柿舎11世庵主
永井瓢齋(ながいひょうさい)の志を継いで、私財を投げ打って戦後の落柿舎の再建に尽力した
<「春の雨天地ここに俳人塔」平澤興>
元京大総長 平澤興(ひらさわこう)の、俳人塔の竣工祭のときの作品
<「何もない庭の日ざしや冬来る」保田興重郎>
落柿舎13世庵主で昭和の文人 保田興重郎(やすだよじゅうろう)の句
「落柿舎のしるべ」の著者
<「足あともはづかし庵のわかれ霜」鹿栢年>
1920年(皇紀2580)大正9年
落柿舎8世庵主 鹿栢年(やまがはくねん)が、落柿舎退庵のときの作品
<去来墓>
落柿舎から北へ約100mほど行った弘源寺の墓苑に「去来」とだけ彫られた小石が置かれた向井去来の遺髪を埋めた塚がある
<向井去来のお墓>
真如堂にお墓がある
<嵯峨日記>
1691年(皇紀2351)元禄4年4月18日から5月4日まで
松尾芭蕉が滞在して嵯峨日記を著したといわれる