頼山陽書斎山紫水明處(らいさんようしょさいさんしすいめいしょ)は、
江戸時代後期の儒学者 頼山陽が自宅の庭に建てた書斎兼茶室の建物
丸太町橋の北側、鴨川の西岸に面し、鴨川からの涼風が心地よく東山への眺望が楽しめる
「山紫水明」とは「自然の風景が清浄で美しいこと」をいい、頼山陽がこの書斎に使って以後、一般に使われるようになった
「山紫水明」とは「自然の風景が清浄で美しいこと」をいう
この地は、現在でも夏には鴨川からの涼風が心地よく、また東山への眺望も残されている
<水西荘>
京都に出てきて6度目の転居の後、晩年を過ごした屋敷地
東山や鴨川の眺望を求めて移り住んだといわれる
<山紫水明処>
水西荘の離れに、新たに造営した草堂風の書斎兼茶室
かつて木屋町二条下ルに住んでいた時の屋敷も「山紫水明処」と称していた
葛屋葺屋根(くずやぶきやね)
小さな床の間がついた四畳半の座敷と、二畳の書斎、約一畳の水屋と板の間、廊下で構成される
茅葺きの質素な外観に較べて、内部は繊細で、
形式にとらわれない生活・接客の空間で、煎茶の用に適した明るく開放的な造りとなっている
障子の明かり採りにガラスが用いられ、欄干に中国風の意匠が用いられている
東山と鴨川が目の前に広がり、東側には庭はなく、西側に庭が造られている
ウメ、サクラ、モモ、ツバキ、ナツメなどの花木、実の成る木が好んで植えられている
扁額「山紫水明処」は、1896年(皇紀2556)明治29年に、広島藩最後の藩主 浅野長勲が記したものといわれる
頼山陽は、広島藩を脱藩し、士籍もはく奪されたことがある
<降り井>
庭にある、鴨川の伏流水が湧き出す井戸
地面から2mほど下に井筒がある半地下式の井戸で、井筒まで降りて水をくむことから名付けられている
適当な深さに湧き水がないと造ることができないため、京都の日本庭園でもほとんど用いられてこなかった大変珍しいもの
頼山陽は、茶の湯にも精通しており、抹茶より煎茶を大変好んだ
友人らに、鴨川の水をくんで煎茶を入れて振る舞い、形式にとらわれない自由な茶の湯を楽しんでいたといわれる