小倉百人一首文芸苑 奥野々宮地区(おくののみやちく)は、
小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野エリアに作られた歌碑の野外展示場の一つ
5ヶ所の公園・公有地に、10の勅撰和歌集ごとに百首の歌碑が建てられている小倉百人一首文芸苑の一つ
小倉百人一首歌碑巡りの一つ
野宮神社から落柿舎へ向かう竹林の道、JR山陰本線(嵯峨野線)の手前右側にある
<後撰和歌集 7首>
入口左側から天智天皇・蝉丸・陽成院、
入口右側から参議等・文室朝康・三条右大臣・元良親王の順に置かれている
<順番・歌人・石碑の揮毫>
1番 天智天皇 日比野光鳳
10番 蝉丸 石田静子
13番 陽成院 池田桂鳳
20番 元良親王 山本万里
25番 三条右大臣 不詳
37番 文屋朝康 芝山持豊
39番 参議等 三宅相舟
<石材>
鞍馬石(花崗岩)
生駒石(黒雲母花崗岩)
島海石(安山岩)
<植生>
マダケ・イロハモミジ・桜など
<用地>
京都市古都保存事業用地
<天智天皇>
入口左側から最初に置かれている
小倉百人一首:第1番
石碑の揮毫:日比野光鳳
「秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ」
(刈り取られた稲の見張り小屋で、ただひとりで夜を明かしていると、
葺いてある屋根の苫の編み目が粗いので、私の着物はぐっしょりと夜露でぬれ続けていることよ)
<蝉丸(せみまる)>
天智天皇の歌碑の隣にある
小倉百人一首:第10番
作者:蝉丸(平安時代初期の官僚)
石碑の揮毫:石田静子
「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関」
(これが都(京都)から東へ下っていく人も、都へ帰ってくる人も、顔見知りの人もそうでない人も逢っては別れ、
別れては逢うというこの名の通りの逢坂関なのだなあ)
<陽成院(ようぜいいん)>
小倉百人一首:第13番
作者:陽成天皇
石碑の揮毫:池田桂鳳
「つくばねの 峰より落つる みなの川 こひぞつもりて 淵となりぬる」
(つくば山の峰から流れ落ちる男女川(おなのがわ)は、流れ行くとともに水量が増して淵(深み)となるように、
私の恋心も、時とともに思いは深まり、今は淵のように深い恋になってしまった)
<元良親王(もとよししんのう)>
小倉百人一首:第20番
作者:元良親王(陽成天皇の第一皇子)
石碑の揮毫:山本万里
「わびぬれば 今はた同じ 難波(なには)なる みをつくしても あはむとぞ思ふ」
(うわさが立ち、逢うこともままならない今は、もはや身を捨てたのも同じこと
それならばいっそ難波潟の「みをつくし」ではありませんが、この身を捨ててもあなたにお逢いしたい)
<三条右大臣(さんじょううだいじん)>
小倉百人一首:第25番
作者:藤原定方
石碑の揮毫:不詳:「奈良絵本百人一首」に記載されているもの
「名にしおはば 逢坂山(あふさかやま)の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」
(逢坂山のさねかずらが、あなたに逢って寝るという意味を暗示しているなら、
そのさねかずらの藁をくるくる手繰るように他人にしられず、あなたのもとへ来る方法がないものか)
<文屋朝康(ぶんやのあさやす)>
小倉百人一首:第37番
作者:文屋朝康(六歌仙の文屋康秀の子)
石碑の揮毫:芝山持豊:1808年(皇紀2468)文化5年版本に記載されている
「白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける」
(葉の上に降りた美しい白露に、しきりと風が吹きすさぶ秋の野、
風で散ってゆく白露はまるで一本の糸で貫き止まっていない玉を、この秋の野に散りばめたようだなあ)
<参議等(さんぎひとし)>
小倉百人一首:第39番
作者:源等(嵯峨天皇のひ孫)
石碑の揮毫:三宅相舟
「浅茅生(あさぢふ)の 小野(をの)の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋(こひ)しき」
(浅茅が生えている小野の篠原ではないが、この心を耐え忍んでも、
耐えきれぬほどにどうしてこんなにも、あなたのことが恋しくてたまらないのだろうか)