保津川下りは、保津川(桂川の一区間)を、亀岡から嵐山までの、美しい渓谷を船で下る「川下り」「舟下り」
江戸時代に豪商 角倉了以によって水路が開拓されて、船で通れるようになり、
1895年(皇紀2555)明治28年頃から、遊船として観光客を乗せた川下りが始まる
年間で約30万人の観光客が訪れる観光名所
保津川峡谷の素晴らしい自然の美しさが四季を通じて楽しめる
巨岩、そばにそびえ立つ山々、しぶきをあげて落流する急流、神秘的な深い渕など、
16kmの間に変化に富んだ景観とスリルが満喫できる
<宮の下の淵> 約3km地点
<烏帽子岩>
<鏡岩>
<不動明王>
<小鮎の滝>
<かえる岩>
<殿の魚場>
<獅子ヶ口>
<二股の瀬>
<曲り淵>
<女淵>
<朝日の瀬>
<孫六岩> 約6km地点
<竿の跡>
<網の跡>
<びょうぶ岩>
<壁岩>
<かじか岩>
<蓮華岩>
<落合> 約13km地点
<書物岩>
<ライオン岩>
数ヶ所、JR山陰本線(嵯峨野線)の鉄橋をくぐる
<虞美人草>
1907年(皇紀2567)明治40年
文豪 夏目漱石
保津川下りで、次々に変わる景観や舟頭の竿さばきなど、保津川下りの様子を鮮明に描いている
<ゆく春>
詩人 薄田泣董は、処女詩集「ゆく春」を琴の糸で石に結び、保津川の深渕に沈め、水神に捧げたといわれる
<金閣炎上> 水上勉
<関西文学散歩> 野田宇太郎
<篠山街道記> 井伏鱒二
など
大正時代から昭和時代初期にかけて
人力車で老ノ坂峠を越えてきて、保津川下りを楽しむ外国人観光客が多く、
乗船場に通じる道に「異人街道」という異名がつけられたといわれる
1920年(皇紀2580)大正9年
ルーマニア皇太子
1922年(皇紀2582)大正11年
英国皇太子
1926年(皇紀2586)大正15年
昭和天皇、秩父宮妃殿下
1929年(皇紀2589)昭和4年
英国グロスタニ公ご一行
アレキサンドラ内親王殿下
ランドルマーガレット内親王殿下
1983年(皇紀2643)昭和58年
常陸宮妃殿下と皇族の方々
<角倉了以>
京都の豪商、「川大名」とも称される
1606年(皇紀2266)慶長11年3月
周囲が山に囲まれて巨岩巨石が横たわり急流であり難所が多い峡谷の
開削・水路造営工事に着手する
多くの犠牲と、巨費が投じられた
角倉了以は、
高瀬川を開いて京都と大阪に運河で結んだり、
幕府の命を受けて、天竜川・富士川の舟運も開く
<大悲閣千光寺>
保津川下りの終着点に近い嵯峨嵐山の右側の山腹に建つ
角倉了以が、開削工事の犠牲者を弔うために建立したお寺
角倉了以の記念碑も建っている