法眼宅間勝賀終焉地・宅間塚(ほうげんたくましょうがしゅうえんのち・たくまづか)は、
周山街道の福王子交差点から少し登ったところの三宝寺橋南詰にある石碑と塚
宅間勝賀(たくましょうが)は、鎌倉時代初期の絵仏師で、法橋、法眼に叙せられた
周山街道沿いに石標があり、敷地の奥にお墓といわれる宅間塚、宅間勝賀塚碑がある
鎌倉時代の絵仏師
宅磨派の祖 宅磨為遠(たくまためとう)の息子
宋画の要素を取り入れた仏画を描く
絵所の役に任じられ、法橋、法眼に叙せられた
<代表作>
東寺の絹本著色「十二天屛風」(国宝)
<高山寺「春日住吉明神像」>
宅間勝賀が描いたものを、恵日房成忍(えにちぼうじょうにん)が写し、明恵上人が神号を加えたものを
室町時代にさらに写したものといわれる
<宅間勝賀終焉地>
周山街道の三宝寺橋南詰に石碑が立てられている
この石碑の奥の敷地に、宅間塚と宅間勝賀塚碑がある
大きさ:高さ107 x 幅17 x 奥行14cm
碑文(南東):法眼宅間勝賀終焉地
<宅間塚>
宅間勝賀のお墓とされる石造無縫塔
高さ87cm
宝篋印塔の基礎を再利用したものといわれる
<宅間勝賀塚碑>
宅間塚(無縫塔)の横に建てられている
建立年:1679年(皇紀2339)延宝7年
建立者:三宅高信
大きさ:高さ94 x 幅46 x 奥行21cm
碑文(南側):
宅間澄賀曽為絵所歴法橋叙法眼故世称宅間法眼常信慕明恵上
人而来往栂尾于時春日住吉二神屡降臨親聴明恵之法要然明恵
之外無見尊容者宅間請上人曰願写尊形以為衆生修結縁上人曰
凡眼直拝神容則恐殞命宅間曰雖死不敢悔矣神亦憐其志暫示現
宅間不堪歓喜則敬而拝写之今栂尾二神之尊像是也宅間之志願
已遂矣喜帰京師於茲誤堕馬而斃矣嗚呼痛哉夫神之霊験挙而不
論之宅間雖末芸者其有志家業也深哉誠殺身以成仁之一端乎時
人憐之建石碑於茲地矣其後年久遠陵谷変遷建碑既絶人亦無知
其蹟者当今歎名蹟蕪没再建一箇片石聊記其大概云爾
延宝七己未年七月三日 画工三宅陽心高信建
碑文の大意:
宅間澄賀(勝賀)は、絵所の役に任じられ、法橋を経て法眼に叙せられた
このため世間では宅間法眼と称した
栂尾の明恵上人に帰依し、京と栂尾を行き来していた
そのとき、春日と住吉の二神が、明恵上人の法要を聴聞しにしばし降臨していた
しかし二神の姿は、明恵上人だけにか見えなかった
宅間は、衆生のために二神の姿を絵に写したいと上人に懇請した
上人は、常人が神の姿をみれば死ぬかもしれないというが、宅間はそれでも嘆願した
二神もその志により宅間の前に姿をあらわした
宅間は喜び二神の姿を拝写した
栂尾(高山寺)にある二神の像が、このときのものである
宅間は、志を果たして喜んで京へ帰る途中、この地で馬から落ちて命を落とした
これが二神の祟りたたりかどうか不明だが、宅間が仕事にかける情熱は深く、身を殺して仁を成した
没後、この地に石碑が建てられたが、年が経ち土地も変り碑もなくなり、知る人もいなくなった
そこでここに石碑を再建する