安養寺(あんようじ)は、円山公園の北東隅、東山中腹にある寺院
この地は、法然ゆかりの吉水草庵(よしみずそうあん)の旧跡といわれる
<阿弥陀堂>
本堂
本堂内に東本願寺23世 彰如聖人 大谷光演の筆の「吉水草庵」の額がある
<石標「法然親鸞両上人御旧跡 吉水草庵 慈円山安養寺」>
<石柱「真葛原吉水庵室」>
<山門>
<書院>
<庫裏>
<閼伽水の井戸「吉水井(よしみずのい)」>
吉水弁財天堂の横にある枯れてしまった井戸
法然上人も使ったといわれる
側面には「吉水」と刻まれている
<聖天堂>
生駒聖天より勧請された歓喜天が祀られている
<慈鎮和尚多宝塔(重要文化財)>
吉水弁財天堂の東北隅にある
塔身正面に扉を開き、釈迦如来と多宝如来の二仏が並座する
高さ244cm
鎌倉時代初期のもの
<阿弥陀如来の石仏>
高さ1.5m
鎌倉時代のもの
<多層塔>
慈鎮和尚多宝塔の奥にある
<句碑>
「露けしや 真葛ヶ原に 石の階」(桂樟蹊子)
<お墓>
都をどりの功労者 尾田木ゆうのお墓
<吉水弁財天堂>
約50m南へ下がったところの飛地境内にある境外仏堂
慈鎮和尚が、弁財天を寺の鎮守として比叡山から勧請したものといわれる
「円山の弁天さん」と称され、技芸上達祈願の信仰を得ている
<料亭「左阿弥」>
かつての塔頭「六阿弥」のうちの唯一の遺構
江戸時代
安養寺の塔頭が、円山公園内に6つあり、「円山の六坊」と称された
左阿弥や也阿弥など、「*阿弥」と号し「六阿弥坊」とも称される
その後、遊客に席を貸したり、料亭を営んだり行楽の地となり賑わった
提案では、俳句、連歌、能楽、蹴鞠、茶会、花の会などが催されていた
安養寺の塔頭以外にも、近くの雙林寺、長楽寺も貸座敷を行っていた
1873年(皇紀2533)明治6年には、明石博高が、安養寺塔頭に隣接して鉱泉施設「吉水園」を建て、三重楼閣があった
<多蔵庵 春阿弥・眼阿弥(がんあみ)>
吉水弁財天堂の北にあった
1877年(皇紀2537)明治10年頃、温泉場になり高楼を建てる
1906年(皇紀2566)明治39年、焼失する
<多福庵 也阿弥(やあみ)>
吉水弁財天堂の近く、さらに北東付近にあった
1886年(皇紀2546)明治19年
也阿弥は、重阿弥、連阿弥を合併して也阿弥ホテルになる
1899年(皇紀2559)明治32年、焼失した
その後、再築され、正阿弥を合併して、外国人宿泊所になり、1906年(皇紀2566)明治39年に再び焼失する
<延寿庵 連阿弥(れんあみ)>
現在の安養寺の西、石段下付近にあった
1838年(皇紀2498)天保9年、焼失する
<花洛庵 重阿弥(じゅうあみ)・庭阿弥(ていあみ)>
端の寮(はしのりょう)とも称される
吉水弁財天堂の近く北東付近にあった
1702年(皇紀2362)元禄15年
赤穂浪士により、吉良上野介を討ち取ることを決定した円山会議が開かれたといわれる
<勝興庵 正阿弥(しょうあみ)
吉水弁財天堂の西付近にあった
1886年(皇紀2546)明治19年に洋風旅館になり、1911年(皇紀2571)明治44年に焼失する
<長寿庵 左阿弥(さあみ)>
吉水弁財天堂の西付近に、茶懐石の料亭左阿彌として現存している
織田有楽斎 の次男 織田頼長により創建された
<阿弥陀如来三尊>
阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩
<法然上人尊像>
阿弥陀如来三尊の右側に安置されている
晩年の円光大師 法然上人の像
<慈鎮和尚尊像>
阿弥陀如来三尊の左側に安置されている
<百万人結縁信決定御満足親鸞聖人吉水参入二十九乾漆像>
「信決定御満足の像」と略称される
29歳の親鸞聖人の像
1939年(皇紀2599)昭和14年
高力善嗟により、百万人の血縁者の名をしたためた紙を燃やし、その灰を漆と混ぜて造られたもの
<石仏 阿弥陀如来>
本堂の前
鎌倉時代の作
蓮華座に定印、結跏趺坐、舟形光背、厚肉彫、花崗岩製、1m
鎌倉時代風の格狭間が刻まれている
<道元の遺偈(ゆいげ)>
1253年(皇紀1913)建長5年8月28日
曹洞宗の祖 道元の記した遺言状で、書き終えた後に永眠したという
<吉水(よしみず)>
東山大谷付近の地名
境内から霊水が涌きでて「よい水」であったことから、「吉水」と称されるようになったといわれる
<円山公園の名称>
安養寺の中興の祖 慈円の名前にちなみ、「慈円山(じえんざん)安養寺」と号し、略して「円山(えんざん)」と称される
安養寺の境内が官収されて公園とされ「円山(まるやま)」と称されるようになる
<アニメ「京都寺町三条のホームズ」>
原作:望月麻衣・秋月壱葉
第9話の八社寺詣りで登場する