平等寺(びょうどうじ)は、不明門通の名称の由来にもなっている寺院
狂言「因幡堂」などに登場する「因幡の薬師堂」
浄瑠璃発祥の地ともいわれる
本尊の薬師如来像は、清凉寺の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに、日本三如来の一つ
開基の橘行平は、清少納言の夫 橘則光の弟
町堂として広い境内があったが、たびたびの大災で次第に小さくなっていった
<本堂>
1886年(皇紀2546)明治19年の再建
<観音堂>
弘法大師像・毘舎門天像・如意輪観音菩薩像・十一面観音・神変大菩薩像(役長者像)・不動明王像が祀られている
<歓喜天堂>
<地蔵菩薩堂>
<不動明王像 2躰>
<木造 薬師如来立像(重要文化財)>
本尊で、一般には非公開
日本三如来の一つ(清凉寺の釈迦如来像・善光寺(長野県)の阿弥陀如来像)
「因幡薬師(いなばやくし)」と称される
創建当初のもので、釈尊御の作といわれる
薬師如来は、十三仏の七番目の仏で、七七日(四十九日)の守り本尊
京都十三仏霊場 第七番の札所にあたる
本尊の前で手を合わせて懺悔すると罪は許されるといわれる
癌封じの薬師如来ともいわれる
何度もの火災を免れて、本堂に安置されている
<十一面観音菩薩 二躰>
元は北野天満宮に祀られていたもので、東寺の塔頭 観智院を経て、平等寺の観音堂の本尊として安置された
<忿怒形三面六臂大黒天>
胎蔵曼荼羅に描かれている大黒天
インドの神マカカーラの姿をしている珍しい大黒天
3つの目、口には牙がある顔を3つ持つ
腕は6本
2本の手で象の皮を背中に広げ、次の2本で人間と牝羊を掴み、前の2本で剣を膝の上に横たえて持つ
京都六大黒天霊場第5番
<毛髪織込光明真言>
小督局の髪の毛で作ったと伝えられる光明真言の織物
高倉天皇との情愛がこめ込められたものといわれる
<硯箱>
小督局が愛用されていたといわれる紅葉の蒔絵の硯箱
毎月の行事
1日〜7日 聖天浴油供
大聖歓喜天(聖天)さんは、金運招福・商売繁盛・学力増進・子授け祈願のご利益がある
8日 本尊薬師如来ご縁日 てづくり市
16日 聖典浴油供
<元旦法要> 1月1日
<星供> 2月節分
<花祭 開基法要> 4月8日
<施餓鬼法要> 8月8日
<大晦日> 12月31日
「まよいいで ここはいなばの ひがしむき こころはにしへ はこびぬるかな」
<不明門通>
通りの北限を塞いでいる平等寺の正面の門が、常に閉ざして開かれることがなかったことが名前の由来
<狂言>
「因幡堂」「鬼瓦」「仏師」「六地蔵」などに因幡薬師堂が登場する
<薬師如来の飛来伝説>
「因幡堂縁起(重要文化財)(東京国立博物館所蔵)」によると
橘行平が、村上天皇の命で因幡国(現在の鳥取県)の一宮に赴く
神事を済ませ帰洛の途中、重い急病にかかり平癒を祈願したところ、夢に異形の僧が現れ、
「因幡国賀留津の海中に一つの浮き木がある。その浮き木は衆生済度(人々を救って悟りを得させるため)に
遠くの仏の国からやってきた。あなたは速やかにこの浮き木を求めて供養しなさい。
そうすれば必ず病気は治る。さらに一切のあらゆる願いが成就するだろう」との夢告を受ける
橘行平は、早速人々を集めて大網を使って海底を探らせると、お告げの通り一つの浮き木があり、
取り上げると、丈五尺ほど(165cm)の薬師如来の尊像だった
橘行平は、その浦に供養する草堂を創建し、薬師如来を祀った
これが「因州国高草郡大字菖蒲浦の座光寺(ざこうじ)」となる
その後、橘行平の病気は平癒し、無事に京に帰ることが出来た
京の自宅での夜、夢に異形の僧が現れ、
「我は西の天より来て、東の国の人々を救おうとやってきた。
あなたには宿縁(前世からの因縁)があるから重ねて事を示す」との夢告を受ける
そのとき、屋敷の西門に「因州の僧だ」と名乗る来客があり、門を開けると、薬師如来が飛来してきていた
橘行平は、自宅に堂宇を創建(因幡薬師堂し、その薬師如来を祀ったといわれる
現在も、因幡国の座光寺には、薬師如来の跡の後光と台座だけが残っている
この時代は、洛中に寺院の創建は禁止されていたが、例外的に認められた
一条天皇も信心され、八ヶ所の子院を建立され、皇室の勅願所とされた