智恩寺(ちおんじ)(ChionJi)


所在地:宮津市天橋立文珠小字切戸   卍地図情報卍

臨済宗妙心寺派の寺院

山号:天橋山(てんきょうざん)

本尊:文殊菩薩

通称:五台山・切戸(きれど)の文殊・九世戸文殊(くせともんじゅ)・知恵の文殊

 智恩寺(ちおんじ)は、宮津市にある天橋立の南端にある寺院

 古くから文殊信仰の霊場とされ、「三人寄れば文殊の知恵」の文珠菩薩を祀る
 奈良県桜井市の安倍文殊院、山形県高畠町の亀岡文殊とともに日本三文殊の一つ

 中国五台山の文殊菩薩を勧請したともいわれ、山号を「五台山」とも通称される

 謡曲「九世戸」の題材となっている寺院


【智恩寺の歴史・経緯】




【智恩寺の伽藍】

 <文殊堂(本堂)>
 山門をくぐって正面に建っている
 雪舟の筆の「天橋立図(国宝)」には、裳階付(もこしつき)宝形造の建物が描かれている
 隠元隆きの筆の扁額「五台山」がかかっている

 1655年(皇紀2315)明暦元年
 宮津藩藩主 京極高国による修理により、現状のように改修される
 1657年(皇紀2317)明暦3年
 檜皮葺の屋根の葺き替えが行われたことが、宝珠の銘文に記されている
 1997年(皇紀2657)平成9年から1999年(皇紀2659)平成11年まで
 保存修理工事が行われ、1657年(皇紀2317)明暦3年に現在の姿に改修されたことが、
宝珠露盤の銅版に刻まれた銘文によって判明した

 桁行柱間は五間
 銅版葺の屋根は、わずかに照り起り(むくり)を帯びた宝形造
 桁行五間、正面に三間の向拝を葺き降ろしている
 向拝(ごはい)以外の柱はすべて円柱
 前面から側面にかけて擬宝珠高欄付の落縁が巡らされている
 前寄り二間通の外陣(げじん)は柱がなく広い空間となっており、周囲は吹き放されている
 正面中央の二本の柱の木鼻の唐獅子は、それぞれ少し外側に顔を向けている

 桁行三間の身舎(もや)を内陣とし、三方の庇(入側)は吹き放しの化粧屋根裏となっている
 内陣は、折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)となっている
 中央には、四天柱を立て、来迎壁があり、唐様須弥壇(しゅみだん)が置かれている

 明暦修理の棟札には、内陣の四天柱は「草創之本柱」であると記されている
 1314年(皇紀1974)正和3年や1270年(皇紀1930)文永7年の鎌倉時代の年号を示す墨書がある
 来迎壁の背面には、両界曼荼羅や仏画が描かれていた

 <山門(宮津市指定文化財)>
 再建時に、後桜町天皇から黄金を下賜されたことで「黄金閣」と称されている
 三間三戸の二重門、上層には釈迦如来や十六羅漢が安置されている
 下層の柱間には、建具が無く開放的になっている
 細部に至るまで本格的な唐様(禅宗様)で、丹後地方最大の山門
 1767年(皇紀2427)明和4年9月
 7年におよぶ工事を経て上棟された
 棟梁は、宮津の名工 冨田庄次郎で、延べ8780人の大工が関わったといわれる
 1768年(皇紀2428)明和5年  関白左大臣 九条尚美により扁額「黄金閣」が記される

 <多宝塔(重要文化財)>
 山門をくぐって左手に建っている
 円形の塔身の上重に相輪をあげ、下重には方形の裳階(もこし)を付けた形式の塔婆
 下重は、来迎柱が立ち、前方に須弥壇があり、中央に大日如来が安置されている
 籠神社別当大聖院の智海により、来迎壁の背面に片足を上げた不動明王が描かれており、
「八十余歳書之 智海」の署名がある
 下重の軒廻りは、拳鼻付(こぶしばなつき)の出組とし、中備として中央は二つ斗(双斗)、
両脇間には間斗束(けんとつか)が置かれている
 和様を基調とし、二つ斗と拳鼻は天竺様(大仏様)、唐様(禅宗様)の手法とされる

 1500年(皇紀2160)明応9年3月
 丹後国守護代 府中城主 延永修理進春信が、病気平癒を感謝して建立されたといわれる
 上重連子窓(れんじまど)の裏板や来迎壁の背面、上重の柱(八角形)などに記された墨書きによると
3月に釿初め(ちょうなはじめ)が行われ、翌1501年(皇紀2161)明応10年4月に落成した
 丹後地方唯一の室町時代の遺構

 <鐘楼門(暁雲閣)>
 文殊堂に向かって右横に建っている
 下層の両側に亀腹が付いた竜宮門形式
 寄棟造・桟瓦葺・屋根は軽く起り(むくり)をおびている
 上層には、再建の経緯を記した銘額「暁雲閣記」が揚げられている
 1722年(皇紀2382)享保7年
 二人の娘を相次いで亡くした宮津の商家 木村正英によって建立される
 彼女らの菩提を弔うべく、二人の法名「暁山彗察」「洞雲自照」から「暁雲閣」と称される

 <方丈>
 文殊堂の奥に建っている
 1841年(皇紀2501)天保12年の再建
 東西24m、南北16m
 屋根小屋組は、天橋立の松材を使用したといわれ、軸部および内装は、すべて節無しの総檜造
 標準的な禅宗方丈様式の建物で、丹後地方では最大級のもの

 <庫裏>
 文殊堂の右奥、鐘楼門の奥に建っている
 1799年(皇紀2459)寛政11年の再建
 丹後地方では数少ない本格的な禅宗様庫裡建築で最大の規模の建物
 東西15m、南北20m、棟高10m

 <鐘楼>
 1881年(皇紀2541)明治14年の建立
 東西、南北ともに3.6m
 本堂東側の暁雲閣に天文年間(1532年〜1555年)鋳造の梵鐘が吊るされていたが、
嘉永年間(1848年〜1854年)にさらに大口径の物が改鋳されて、現在の地に移された
 現在の梵鐘は、昭和四十八年に再改鋳されたもの

 <鎮守堂>
 弁財天が祀られており、「弁財天女堂」と称されていた
 1849年(皇紀2509)嘉永2年の再建
 文殊堂東側の海中の島にあった
 1879年(皇紀2539)明治12年
 入り江の埋め立てによって現在の地に移転された
 東西3m、南北2m

 <無相堂>
 文殊堂の左奥に建っている

 <妙音殿>
 妙音弁才天が祀られている

 <稲富一夢(いなとみいちむ)のお墓>
 鉄砲の名手で稲富流砲術の開祖 稲富一夢の宝篋印塔
 一夢は、「伊賀守直家(いがのかみなおいえ)」と称して、代々、一色家の家臣として岩滝町弓ノ木城主だった
 若い頃に、天橋立の濃松(あつまつ)で射撃の稽古に励んだといわれる
 文殊堂に、17日の願をかけて、闇討ちの訓練を行い、空飛ぶ鳥も、意のままに命中させたといわれる
 主人 一色義俊と、弓ノ木城に篭城し、細川の軍勢を相手に鉄砲で防戦をしたといわれる
 1611年(皇紀2271)慶長16年2月6日
 京極高知により建立される

 <織部燈篭>
 裏庭にある
 「マリア燈籠」とも称される

 <和泉式部の歌塚(宮津市指定有形文化財)>
 石造 宝篋印塔(ほうきょういんとう)
 「丹哥府志(たんかふし)」によれば、丹後守藤原公墓が、日置金剛心院において、
和泉式部が書き捨てた和歌を持ち帰り、なみだの磯(涙が磯)に埋めて「鶏塚」と称したという
 「いつしかと 待ちける人に 一声も 聞かせる鶏の うき別れかな」
 1492年(皇紀2152)明応元年
 砂に埋まった塚を掘り出して、文殊堂の傍らに建てたのが、この歌塚といわれる
 基礎の格狭間(こうぎま)、塔身の薬研彫(やけんぼり)の四方仏の種子(しゅし)、笠石四隅の突起などに
時代的な特徴がある

 <鉄湯船(重要文化財)>
 手水鉢として使われている鉄盤
 寺院の大湯屋において、寺僧の施浴に用いられたもの
 内側に銘文があり、もとは興法寺(竹野郡弥栄町)のために鋳造されたもの
 1290年(皇紀1950)正応3年
 河内国の鋳物師 山川貞清により制作された
 成相寺のものと同時期に制作され、東大寺のものと合わせ日本三大鉄湯船といわれる

 <石仏(地蔵菩薩像)3躯(内2躯は宮津市指定文化財)>
 多宝塔と向かい合うところに、南に並んで2躯、北に離れて1躯の石仏が立っている
 雪舟の「天橋立図」にも描かれている
 等身大で、左手で宝珠を捧げ、右手を握って錫杖を持っている

 南側の一体は、背中の銘文よると、1427年(皇紀2087)応永34年に三重郷(中郡大宮町)の大江永松が
発願して造立した一千体の地蔵のうちの一体とされる
 中央の一体は、顔や両手先に損傷を受けている
 北側の一体は、斜めに流れる体部衣文(えもん)の彫法に特徴がある
 銘文によると、竹野郡恒枝保の三上因幡守の発願で1432年(皇紀2092)永享4年に造立された

 <六地蔵>
 境内の奥に安置される6体のお地蔵
 六道において衆生の苦患を救うといわれる

 <力石(ちからいし)>
 祭や集会の余興で、この石を持ち上げて青年たちが力自慢をしたもの
 大きいのが約130kg、中が約100kg、小さいのが約70kg
 この石に触ると、力と知恵が授かるといわれる



【智恩寺の寺宝】

 <木造 文殊菩薩(重要文化財)
 獅子に乗る秘仏の本尊
 古くから文殊信仰の霊場とされ、「三人寄れば文殊の知恵」と称される
 衣に、牡丹唐草・雷文繋・鳳凰丸文・蓮華唐草などの細かい盛り上げ彩色の文様が施されている
 鎌倉時代後期の特色の高く結い上げた宝髻や、張りと柔軟さを感じさせる肉身が表現されている
 両肩を覆う衣をまとい如意を持つ文殊菩薩の姿は、密教の文殊菩薩と異なる
 奈良県桜井市の安倍文殊院、山形県高畠町の亀岡文殊とともに日本三文殊の一つ
 正月三ヶ日・1月10日・7月24日の年5日のみ開帳されている

 <脇侍 善財童子および優填王像(重要文化財)>
 文殊菩薩の脇侍の文殊を象徴する経箱を捧げ持つ善財童子と、獅子を曳く優填王像
 文殊菩薩が、インドから中国へ旅したという姿

 <木造 地蔵菩薩立像
 円頂で衣を着ける僧の姿で、宝珠と錫杖を持つ
 像高 96.7cm
 鎌倉時代後期の作

 <大日如来坐像
 多宝塔の本尊
 頭部と体部を通して前後二材からなる寄木造で、玉眼を嵌入しています
 1501年(皇紀2161)文亀元年
 康珍の作
 近年の解体修理のときに、制作について記した銘文が見つかって判明している

 <三角五輪塔(宮津市指定文化財)>
 笠(火輪)が三角錐に作られている

 <絹本著色 釈迦三尊像一幅(京都府指定文化財)>
 113.0cm×63.8cm
 南北朝時代
 釈迦如来を中心に、獅子に乗る文殊菩薩と白象に乗る普賢菩薩が描かれている

 <絹本著色 地蔵菩薩像一幅(京都府指定文化財)>
 144.2cm×78.7cm
 南北朝時代
 海中から湧く雲に乗り、本来手に持つ錫杖を背後に立てている珍しいもの
 中国 元時代の仏画を写したものといわれる

 <金鼓(鰐口)(重要文化財)>
 1322年(皇紀1982)元亨2年10月16日
 朝鮮海州首陽山の薬師寺の什物としてつくられたもの

 <木製黒漆塗 扁額「萬福寺」一面(京都府指定文化財)>
 53.2cm×33.6cm
 額縁には牡丹唐草文や宝珠の線刻文様がある
 萬福寺は、かつて対岸の宮津市府中に所在した寺院
 1346年(皇紀2006)正平元年/貞和2年
 萬福寺が、遊行七代他阿上人託何が、時宗道場として再興されたときの作

 <九世戸縁起 一巻(京都府指定文化財)>
 25.1cm×513.5cm
 室町時代天橋立の生成と文殊信仰との関係が記されており、
醍醐天皇のときに、勅願寺として文殊菩薩を本尊とする智恩寺が建立されたと記されている
 奥書がなく、この縁起の制作時期については不詳
 室町時代東福寺の徹書記 清巌正徹の筆といわれる
 この縁起は、観世小次郎信光の作の謡曲「九世戸」の素材になっている

 <九世戸智恩寺幹縁疏并序 一巻(京都府指定文化財)>
 27.7cm×162.9cm
 「幹縁疏(かんえんそ)」とは、建物修造や造仏のときに献金を募るために作る詩文の一種で、勧進帳のこと
 1486年(皇紀2146)文明18年
 奥書に「文明18年丙午月日 勧縁比丘寿桃敬白」とある
 寿桃(じゅとう)が記して、勧進のときに携えて諸方の貴官長者・有力無力檀越の献金を求めたもの

【その他】

 <雪舟の「天橋立図」(国宝)
 天橋立の南端に智恩寺も描かれている
 現存する多宝塔、裳階付(もこしつき)で宝形造の建物などが描かれている

 <智恵の輪灯籠
 観光船のりば近くに立つ石輪灯籠
 「この輪灯籠の輪を3回くぐれば文殊菩薩の智恵を授かる」という

 <智恵の餅>
 門前町で売られている名物の餅
 文珠菩薩を信仰する門前町の老婆が、霊夢によって教えられた餅を作って幼い子供達に与えていた
 その一人が賢く育ち、大徳寺の大燈国師により見込まれ、後に立派な大僧正となったという

【智恩寺へのアクセス】

 北近畿タンゴ鉄道 宮津線 天橋立駅 徒歩約5分
 (京都から特急乗車で約110分)
 (大阪から特急乗車で約130分)

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