大報恩寺(だいほうおんじ)は、「千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)」と称される寺院
応仁の乱の戦火の中で残った京都市街地では最も古い建物が残る
吉田兼好の「徒然草」にも登場する
おかめ伝説に伴い建築関係者、特に大工職の参詣も多い
南の門前町は歴史の古い市街地として上京北野界わい景観整備地区に指定されている
大報恩寺は、街の中にあり、一般の民家に囲まれて建っている
境内入り口に「千本釈迦堂」と彫られた石柱が立てられており、参道が山門まで続く
山門をくぐり正面に本堂が建つ
<本堂(国宝)>
千本釈迦堂
創建当時のままの純和風の寝殿造
1227年(皇紀1887)安貞元年の建立
応仁の乱やたびたびの大火からも奇跡的に焼失を免れ、京都市街地に現存する最古の木造建築
1954年(皇紀2614)昭和29年
本瓦葺から檜皮葺きに変えられる
本尊の秘仏 釈迦如来像(重要文化財)が安置されている
内陣と外陣とを区切っている隔壁は、鎌倉時代初期の遺構といわれ、柱には、応仁の乱の時の刀や槍の傷跡が残る
内部には中陣の天井周りの七宝つなぎなどの装飾があり、板壁仏画なども残る
大柱の上部に升型の受けがあり、大工棟梁が誤って切ってしまい、妻おかめのアイデアで、足りない分を升型の受けを作る事で解決したものといわれる
<おかめ塚>
本堂の前、東側の大きな宝篋印塔
本堂を建立した大工棟梁 長井飛騨守 高次の妻 阿亀(おかめ)の内助の功をしのぶ遺跡
本堂の造営のための貴重な柱の寸法を誤って切ってしまい途方に暮れていた高次を見た妻が、一計を案じ見事に本堂を落成させることができた
しかし、上棟式の前日に妻は「女の入れ知恵があったと世間にばれたら夫の恥」と自殺してしまった
高次は、妻の心情にうたれ、上棟式に御幣におかめの面を飾り冥福を祈ったという故事に由来する
<おかめ銅像>
おかめ塚の左側に建つ満面の笑みのブロンズ像
1979年(皇紀2639)昭和54年
おかめを慕う信者らにより建てられる
銅像の原型の「おかめ人形」が本堂の東隅に安置されている
<北野経王堂>
山門から本堂までの参道の左側に建つ
1401年(皇紀2061)応永8年
足利義満が、明徳の乱で敗戦死した山名氏清や兵士を弔うため「北野経王堂願成就寺」を内野(北野天満宮門前)に建てたといわれる
明治維新
神仏分離令によって破却され、大報恩寺に解体縮小して移築される
<霊宝館>
本堂の西側に建つ
<稲荷大明神>
<弘法大師堂>
<不動明王堂>
<ぼけ封じ観音菩薩像>
ぼけ封じ近畿十楽観音霊場第二番札所
<布袋尊>
福徳長寿・富貴繁栄・商売繁昌・家運隆盛のご利益
<御衣黄桜(ぎょうこうざくら)>
花の色が、淡緑から少し濃度を増して緑色になる
<黄桜(ク金の桜)>
<菩提樹>
国宝、重要文化財が40件以上あるといわれる
<秘仏の本尊 木造 釈迦如来坐像(重要文化財)>
<木造 六観音菩薩(国宝)>
<木造 地蔵菩薩立像(国宝)>
<木造 十大弟子立像(重要文化財)>
<銅造 誕生釈迦仏立像(重要文化財)>
<だ太鼓縁(だだいこぶち)(重要文化財)>
<木造 千手観音菩薩立像((重要文化財)>
<木造 傳大士(ふたいし)および二童子像(重要文化財)>
<北野経王堂一切経(重要文化財)>
<おかめ福節分会>
2月節分
お多福招来を願う
<千本釈迦念仏・遺教経会>
3月22日
釈迦の「遺教経」を千本式の唱え方で奉誦され、僧侶の声明が静かに流れる
文永年間(1264年〜1275年)
二世の如輪により始められる
吉田兼好の「徒然草」にも記録がある
<花供養> 5月
<陶器市>
7月9日〜12日
全国の陶磁器業者が境内に露店を開き、陶器市が行われる
<陶器供養会>
7月10日
磁器の原石などが本堂に供えられ、陶磁器への感謝と、業界の発展を祈願する法要が行われる
<精霊迎えと六道まいり>
8月8日〜12日
お精霊迎えの「迎え鐘」が撞かれる
葬送の地「蓮台野」に使者を葬る時に撞いたという故事にちなむ
<大根焚き>
12月7日〜8日
成道会法要(じょうどうえほうよう)
釈迦が悟りを開いた日を記念して行われる厄除けの大根供養
集められた丸い大根を輪切りにした切口に梵字を記して無病息災を祈願し、大鍋で煮込み参拝者にふるまわれる
中風除け、諸病除けのご利益がある
諸堂を建築する際に、木材不足で進まず、摂津の有力な材木商からの寄進で建設にいたったが、
本堂を建立した大工棟梁 長井飛騨守 高次が、貴重な柱の寸法を誤って切ってしまい途方に暮れることになる
そこで、高次の妻おかめが一計を案じ、見事に本堂を落成させることができた
しかし、上棟式の前日に妻は「女の入れ知恵があったと世間にばれたら夫の恥」と自殺してしまった
高次は、妻の心情にうたれ、上棟式に、扇御幣におかめの面を飾り冥福を祈ったという
本堂の大柱の上部に升型の受けが、足りない分を補ったものといわれる
その後、度重なる戦火にも本堂だけは奇跡的に残ったことなどから、厄除・招福のおかめ信仰となる
大工の信仰を得、今日、上棟式にお多福の面を着けた御幣が飾られる由来となっている