大黒寺(だいこくじ)は、伏見 丹波橋駅の西、京都市伏見区総合庁舎の北側付近にある寺院
金札宮の向かいにある
薩摩藩ゆかりの大黒天(出世大黒天)(伏見大黒天)が祀られている
<山門>
屋根の両端には、丸に十字紋の薩摩藩藩主 島津家の家紋の屋根瓦と、その上に大黒天像がのっている
<本堂>
宝形造
「円通」の扁額がかかっている
幕末維新に西郷隆盛・大久保利通ら志士達が密談を行ったといわれる部屋がある
<おさすり大黒さん>
本堂前に置かれている、撫で大黒天の石像
<金運清水>
大黒寺の入口の左奥に湧く伏見の名水の一つ
2001年(皇紀2661)平成13年に掘られた
<手水>
不動明王が祀られている
<伏見寺田屋殉難九烈士之墓>
墓地に「伏見寺田屋殉難九烈士之墓 西郷隆盛先生建之書亦直筆也」の石標が立ち、左側に9基の墓石が立つ
石標は、西郷隆盛により建立された
1862年(皇紀2522)文久2年 寺田屋事件
同じ薩摩藩藩士から粛清された薩摩藩の勤王組織「精忠組(誠忠組)」の犠牲者が葬られている
有馬新七・田中謙助・橋口伝蔵・柴山愛次郎・弟子丸竜助・橋口壮介・西田直五郎・森山新五左衛門・山本四郎の9人
相国寺の塔頭 林光院の墓地にも72名の薩摩藩藩士が合葬されている
<伏見義挙殉難士之墓地>
本堂前脇に石碑が立つ
天明伏見義民の文殊九助(もんじゅうきゅうすけ)ら7名の遺髪が納められている
墓地には、お墓がある
天明年間(1781年~1789年)
「天明伏見義民」「伏見義民一揆」とも称される
伏見奉行 小堀政方の悪政、御用金で遊興していたことにより伏見の町が衰退するのを憂いて、
奉行所が伏見港で着船や船客から料金を取り上げたことで、町年寄たちが取りやめの沙汰を申し出る
1785年(皇紀2445)天明5年7月
町年寄の文殊九助(刃物鍛治)、丸屋九兵衛(農業)、麹屋伝兵衛(麺製造業)、伏見屋清左衛門(塩屋)、柴屋伊兵衛(薪炭商)、
板屋市右衛門(製材業)、焼塩屋権兵衛(器製造業)の7人が、死を覚悟して江戸幕府 松平伯耆守に直訴する
願書は却下になり、7人は直訴の罪で投獄される
1787年(皇紀2447)天明7年
松平定信が老中になり、町人側の訴えがほぼ認められ、小堀正方は伏見奉行を罷免され、領地没収、お家断絶となる
7人は、松平定信が赦免を申し渡したが、時遅く、みんな病死や牢獄死していた
勝念寺には「天明義民 柴屋伊兵衛墓所」の碑が立っている
<薩摩義士碑>
本堂脇に石碑が立つ
江戸時代の薩摩藩家老 平田靱負(ひらたゆきえ)を顕彰する碑
1752年(皇紀2412)宝暦2年から1755年(皇紀2415)宝暦5年
薩摩藩が担当した木曽川・長良川・揖斐川の治水工事で、工事途中で流されたことなどもあり300万両もの巨額な費用がかかった
その責任をとって薩摩藩家老の平田靱負が自刃した
<平田靱負翁之墓>
墓地に、平田靭負のお墓、五輪塔がある
明治時代に、移されてきた
<本尊 秘仏 大黒天立像>
「出世大黒天」「伏見大黒天」とも称される
空海の作といわれ、空海が、当 長福寺を創立したとき安置したものといわれる
金張の厨子の中に祀られている像高約24cmの仏像
甲子の年に開帳されていた秘仏
現在は9月の大黒天大祭で1年に1日開帳される
薩摩藩藩主島津家の護り本尊とされて、武運長久が祈願されていた
京都六大黒天霊場第6番札所
伏見五福めぐり、伏見七福神
脇侍:不動明王・毘沙門天
<聖観音立像>
右側の脇段に祀られている
空海が当 長福寺を創立したとき安置したものといわれる旧本尊
<伏見寺田屋殉難九烈士ゆかりの遺品>
遺墨、歌、肖像、遺品などが所蔵されている
<八代美津女の位牌>
幽霊子育飴伝説がある八代美津女(やしろみつめ)(元東京市長 田尻稲次郎の兄嫁)の位牌が祀られている
<節分会>
2月節分
<大黒天大祭>
9月
本尊 秘仏 大黒天立像が年に1日だけ開帳される