大雄寺(だいおじ)は、七本松通を下立売通から上がったところにある寺院
三番町は、桃山時代の聚楽第の武家町跡
周辺にも各宗派の寺院がいくつもあり「てらまち」とも称される地域にある
儒医者 松下見林、映画監督 山中貞雄のお墓がある
桃山時代
1602年(皇紀2262)慶長7年
浄土宗の僧 慶誉上人(けいよしょうにん)により創建される
1735年(皇紀2395)享保20年
檀中の山本仁兵衛により地蔵尊が寄進される
1788年(皇紀2448)天明8年
天明の大火により焼失する
その後、再建される
1996年(皇紀2656)平成8年
地蔵菩薩が修復復元され、地蔵堂が再建される
2015年(皇紀2675)平成27年4月
本堂・庫裏・山門が改築される
<本堂>
椅子席で参拝ができる
茶室も、正座でも椅子でも利用できる
<ギャラリー>
休憩室・結婚式や年忌法要のお食事会・法話、講習、伝統芸能の会などが行われる
盆石が常時展示されている
<庭園>
西方浄土へむかう岸辺に見立てられている
舟灯篭が浄土への道を照らし、阿弥陀如来のお導きを象徴している
<地蔵尊>
卵形の地蔵堂に極彩色の地蔵菩薩が祀られている
1735年(皇紀2395)享保20年
檀中の山本仁兵衛により寄進される
1996年(皇紀2656)平成8年
地蔵尊が修復復元され、地蔵堂が再建される
<毘沙門天>
<松下見林のお墓>
江戸時代初期の儒医者 松下見林のお墓
医学・儒医・国学・算術・経学に通じ、著書「日本三代実録」、日本史研究書「異称日本伝」などがある
<山中貞雄の碑>
日中戦争により中国で戦病死した日本映画監督 山中貞雄の追悼碑
1941年(皇紀2601)昭和16年
山中監督を慕う映画関係者により建立された
9月17日の命日前後には、戦前から山中忌が行われている
碑文の揮毫は、親友の監督 小津安二郎氏によるもの
「山中貞雄死を聖戦の大義に奉り忠魂永へる靖国の社に招かる。
山中貞雄生を芸能の大道に致し鬼雄千載映画の史乗に耀かん。
君ハ明治四十二年十一月七日京都市五條本町に喜左衛門氏五男として生る。
学業を京都一商に卒へるや性来信愛措かざりし映画の道に志を得べくマキノ撮影所に入り脚色及び監督助手の任に精励す。
後、寛寿郎映画に転じ始めて宿志を延べ監督として処女作「抱寝の長脇差」を作り才幹の凡ならざるを示す。
二十三歳の秋なり。
爾後作品を重ねる毎に天稟愈々冴へ鏤刻益々凝って克く時代劇映画の芸域を伸展し請はれて
日活京都撮影所に移るや「盤嶽の一生」「国定忠治」「街の入墨者」「河内山宗俊」等幾多の名作を世に問ふ、
その匠意の逞しさ、格致の美しさ、洵に本邦藝能文化史上の亀鑑として朽ちざるべし。
昭和十二年春東宝東京撮影所に迎へられ、気を負ふて「人情紙風船」の作を成すや幾十もなくして日支事変勃発し、
名誉ある公務に応じ陸軍歩兵伍長として出征、支那各地に転戦すること一歳余り、
遂に徐州の野に陣没、曹長に進級す、享年三十歳。昭和十三年九月十七日なり。
君 生得一途映画道に精進し映画の中に師弟知友を視、愛すべき特偉の風格掬すべき純撲の性情、
傾けて之れ盡く映画に親昵しさり、
茲に友人有志相寄りてその至情に酬ひ、興亜聖業の礎石たる君が勲功を顕彰し、その菩提を弔ひ訪る者に然く語るなり。
皇紀二千六百年建立。」
<山中貞雄のお墓>
山中貞雄が亡くなった中国の病院跡地の土が納められたといわれる
<石標「贈 従四位 松下見林翁之墓 アリ」>
門前に立っている
お正月参り 1月
涅槃会 2月
幅160cm・丈240cmの涅槃図が掲げられる
春彼岸会 3月
花まつり 4月
誕生仏に甘茶かけが行われる
善導忌 6月
二祖対面図が掲げられる
秋彼岸会 9月
山中忌 9月17日前後
<盆石>
ギャラリーにて常設展示され、教室も行われている
盆の上に、石をたて、砂を打ち、大自然を表現する縮景芸術のひとつ
飛鳥時代、推古天皇の頃が起源で
石には神仏が降臨し、石そのものを神仏と参拝する古代からの磐座信仰によるもの
室町時代に鑑賞として流行する
江戸時代中期に手順などの作法が確立される