延暦寺(えんりゃくじ)は、比叡山全域を境内とする寺院で、日本天台宗の祖 最澄により開かれる
比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)・西塔(さいとう)など、三塔十六谷の堂塔を総称して
「延暦寺」と称される
境内は、国の史跡に指定されている
比叡山は、平安京からみた北東の鬼門にあたる
奈良の諸大寺の「南都」に対して「北嶺(ほくれい)」、園城寺(おんじょうじ)の「寺門(じもん)」に対して
「山門(さんもん)」と称される
2006年(皇紀2666)平成18年には、開宗1200年を迎えた
住職(貫主)は、「天台座主」と称され、天台宗の寺院を統括する
現在も天台の思想に基づいた「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が続けられている
「比叡山鳥類繁殖地」として天然記念物に指定されている
<八宗兼学>
平安時代末期から鎌倉時代
天台教学は、「八宗兼学」といわれ、新しい宗旨を唱える学僧を輩出した
日蓮宗の開祖 日蓮聖人
浄土宗の開祖 法然上人
浄土真宗の開祖 親鸞聖人
臨済宗の開祖 栄西禅師
曹洞宗の開祖 道元禅師
智真、時宗の開祖 一遍上人
天台宗空也派の創始 空也上人
天台宗真盛派の創始 慈摂大師 真盛上人
鎌倉新仏教といわれる禅宗の開祖など
<日本仏教の母山>
日本仏教における著名な高僧の多くが、若い日に比叡山で修行していることから「日本仏教の母山」とも称されている
最澄と対立していた空海のもとからは、高名な僧が殆ど輩出していないことも比べられる
標高848mの比叡山全域を境内とする
<三塔>
比叡山の山内は、「東塔(とうどう)」「西塔(さいとう)」「横川(よかわ)」と称される3つの区域に分かれている
滋賀県側の山麓の坂本地区には、本坊の滋賀院、「里坊」と称される子院群がある
これらを総称して「三塔」と称し、さらに細分して「三塔十六谷二別所三千坊」と称される
東塔:北谷・東谷・南谷・西谷・無動寺谷
西塔:東谷・南谷・南尾谷・北尾谷・北谷
横川:香芳谷・解脱谷・戒心谷・都率谷・般若谷・飯室谷
別所:黒谷・安楽谷
<根本中堂(国宝)>
東塔に建つ延暦寺の総本堂
最澄が建立した一乗止観院が発展したもの
一重、入母屋造、総欅造、銅板葺瓦棒入、幅37.6m、奥行23.9m、屋根高24.2m
内陣は、土間になっており、外陣より床が3mも低くなっている
内部には、3基の厨子が安置されている
中央の厨子には、最澄の自作といわれる秘仏の本尊 薬師如来立像が安置されている
本尊の厨子前の釣灯籠は、創建以来、絶やしたことがない「不滅の法灯」が灯っている
護摩壇があり、毎日、薬師護摩が焚かれている
788年(皇紀1448)延暦7年
最澄により、鎮護国家の道場として一乗止観院が創建される
1571年(皇紀2231)元亀2年
織田信長による焼き討ちにより焼失
1642年(皇紀2302)寛永19年
徳川家光によって現在の建物が再建される
<回廊(重要文化財)>
根本中堂の正面をコの字に取り囲む廻廊
一重両下造(まやづくり)、正面前後軒唐破風、屋根栩葺、桁行折曲り41間、梁間2間
回廊内には前庭が造られている
竹台の北は「いん篠(いんじょう)」と称され、国内3700社の神が祀られている
南は「叢篠(そうじょう)」と称され、山王七社が祀られている
二つの鎮壇塚には18神が祀られている
最澄が、唐の天台山香炉峰の神より贈られたという「ていの木」が植えられている
「安鎮家国法」という密教秘法が修されるときに、神に供える仏具、秘具が埋められている
1642年(皇紀2302)寛永19年
根本中堂が、徳川家光によって現在の建物が再建された同じ時期に建立された
<文殊楼(常坐三昧院・一行三昧院)>
根本中堂の真東に、高い石段の上に建っている根本中堂の正門とされる
重層楼閣、入母屋造、重層和唐混合様式、銅板葺、一層の中央1間が吹き抜けになっている
二階建ての門で、上層に智慧の文殊菩薩が安置されている
最澄の四種三昧堂の一つ
文殊楼の石段最上段の高さと根本中堂屋根の高さが等しく、約20mの高低差がある
861年(皇紀1521)貞観3年
円仁により、常座三昧の修行を行う道場として、
中国五台山の文殊菩薩堂に倣って、五台山の霊石5つを周囲に埋めて建立が始まる
868年(皇紀1528)貞観10年
文殊楼が完成し、五台山の香木を胎内に納めた文殊菩薩像が安置される
966年(皇紀1626)康保3年に焼失
969年(皇紀1629)安和2年
良源により、中国五台山の文殊菩薩が勧請されて再興される
1642年(皇紀2302)寛永19年
徳川家光により再建される
1668年(皇紀2328)寛文8年の火災で焼失
現在の建物は、その後に再建されたもの
<文殊楼の世界平和の鐘>
世界106ヶ国から寄せられたコインやメダルを銅合金により鋳造されたもの
国連本部の世界平和の鐘を継承し、戦争の悲惨さ、核兵器廃絶、平和の尊さを訴える
2007年(皇紀2667)平成19年の寄贈
<大講堂(重要文化財)>
僧侶が学問研鑽のため論議する道場で、本尊に胎蔵界の大日如来が安置されている
右脇侍に十一面観音菩薩、左脇侍に弥勒菩薩が安置されている
入母屋造、桁行7間、梁間6間、正面に向拝、桟唐戸、蔀戸
本尊の両脇には、中国天台宗開祖 智顗、最澄、桓武天皇、聖徳太子が祀られている
若い頃に延暦寺で修行した高僧の等身大木像が、各宗派から寄進されて安置されている
向かって左から日蓮宗・日蓮、曹洞宗・道元、臨済宗・栄西禅師、天台宗・円珍、浄土宗・法然上人、浄土真宗・親鸞聖人、
融通念仏宗・良忍、天台真盛宗・真盛、時宗・一遍上人
良源が始めた「法華大会広学堅義」、最澄による「天台会法華十講」などの論義法要が行われている
「涅槃会」「伝教大師御影供」などの法会も行われている
824年(皇紀1484)天長元年
初代天台座主 義真和尚により創建される
1956年(皇紀2616)昭和31年に火災で焼失
1964年(皇紀2624)昭和39年
東山麓 坂本の東照宮の讃仏堂(1634年(皇紀2294)寛永11年の建立)を移築される
<法華総持院(東塔院)東塔>
最澄が、日本全国の6ヶ所の聖地に建立した六所宝塔を総括する近江宝塔院にあたる多宝塔があった
根本中堂と共に重要な信仰道場とされる
上層部は、平面円形ではなく、方形になっている
下層に胎蔵界大日如来、上層に仏舎利と法華経1,000部が安置されている
862年(皇紀1522)貞観4年
円仁により、唐の長安青龍寺の鎖国道場を模して建立される
1571年(皇紀2231)元亀2年9月12日
織田信長の焼き討ちにより焼失
1980年(皇紀2640)昭和55年
約410年ぶりに再建される
<法華総持院・阿弥陀堂>
念仏回向の道場
法界寺阿弥陀堂を模して建てられた朱塗りの方形造の建物
本尊に阿弥陀如来が祀られている
方5間、1間の庇付、軒廻りに蟇股、屋根の上に青銅製の露盤宝珠(約2.3m×3m)がある
全国の檀信徒位牌が祀られている
堂には52段の石段があり、修行により悟り成仏に向かう道といわれる
1937年(皇紀2597)昭和12年
比叡山開創1150年大法要を記念して創建される
設計は安井楢次郎(京都府技師)
<法華総持院・灌頂堂(かんじょうどう)>
灌頂は法を伝える儀式で、僧の頭に香水が灌がれる(そそがれる)
1984年(皇紀2644)昭和59年の建立
<法華総持院・鐘楼>
1983年(皇紀2643)昭和58年
坂本の讃仏堂より移築された
<法華総持院・寂光堂・回廊・楼門>
1986年(皇紀2646)昭和61年の建立
<大乗戒壇院堂(だいじょうかいだんいんどう)(一乗戒壇院)(法華戒壇院)(重要文化財)>
僧侶が大乗戒(規律)を受ける延暦寺の中で最も重要なお堂とされる
天台座主を伝戒師として、年に約70人が戒を受けているといわれる
方5間、一重、裳階付宝形造、柿葺、栩葺、正面は軒唐破風
内部は、四半敷、石造戒壇がある
釈迦三尊(釈迦如来<戒和上>、文殊菩薩<羯魔師>、弥勒菩薩<教授師>)が安置されている
828年(皇紀1488)天長5年
初代天台座主 義真和尚により創建される
1571年(皇紀2231)元亀2年9月12日
織田信長の焼き討ちにより焼失
1678年(皇紀2338)延宝6年
現在の建物が再建される
<大黒堂(出世大黒天堂)>
かっての政所・食堂
本尊には、正面が大黒天・左に毘沙門天・右に弁財天の3つの顔を持つ三面大黒天が祀られている
大黒天は、最澄が初めて比叡山に登り山中で修行をしていたところに現れて、寺の財政を守護することを約束したといわれる
最澄は、比叡山の平安と、庶民の財福を祈願したといわれる
豊臣秀吉も開運と福徳を祈願したといわれ、「出世大黒天」ともいわれている
1571年(皇紀2231)元亀2年9月12日
織田信長の焼き討ちにより焼失
寛永年間(1624年〜1644年)
再建され、食堂・根本中堂御供所として使われた
<萬拝堂>
日本全国の神社仏閣の諸仏諸菩薩諸天善神が勧請され、世界の神々も奉安されている
千日回峯行者が明け方に参拝している
宝形造
<国宝殿>
仏像や絵画・工芸品・文書などが収蔵展示されている
<大書院>
皇室・高僧・勅使の宿坊・休憩所に使われている
1928年(皇紀2588)昭和3年
昭和天皇の即位・御大典にあわせ、迎賓館として、東京 山王台に建てた村井吉兵衛の邸宅の一部を移築する
<一隅を照らす会館>
参拝者のための無料休憩所
比叡山全景の立体模型などが置かれている
<祖師御行績絵看板>
2006年(皇紀2666)平成18年
天台宗開宗1200年慶讃大法会にあたり、伝教大師 最澄や比叡山から輩出された祖師たちの御行績絵看板が修復され
境内に掲げられた
<元亀兵乱殉教者鎮魂塚>
東塔入口にある
1571年(皇紀2231)元亀2年9月12日の織田信長の焼き討ちの犠牲者の塚
1000人から3000人が供養されている
<開運の鐘>
比叡山に一大事があれば、鐘が撞かれ、各山各谷より宗徒・公人・僧兵が集まったという
1571年(皇紀2231)元亀2年9月12日
織田信長の焼き討ちのときには、美しい「茄子婆さん」という女性が紫色の顔色をしてこの鐘をしきりに撞いていたといわれる
1956年(皇紀2616)昭和31年に焼失
その後、再建されたもの
梵鐘は、827年(皇紀1487)天長4年に勅命により鋳造されたもので、国宝殿に保管されている
<前唐院>
大講堂の裏(北側)にある
本尊は、第3世天台座主 慈覚大師 円仁の真影が安置されている
円仁が中国 唐から持ち帰った経典・法具・仏画なども安置されているといわれる
円仁の禅房だったともいわれる
888年(皇紀1548)仁和4年
円珍が、円仁の学積顕彰のため創建したともいわれる
980年(皇紀1640)天元3年
良源により、円仁が唐から持ち帰り根本経蔵に蔵していた顕教文献、法華総持院に蔵していた密教文献を
前唐院へ移したといわれる
中国 唐から来日した僧や、帰国した僧が住んだ
後に、第5世天台座主 智証大師 円珍が、西谷に唐院(後唐院)を建立したため、こちらは「前唐院」と称されるようになった
円仁を偲ぶ華芳会が行われる
<瑞雲院(法華三昧道場)>
大講堂の裏(北側)にある
法華経を論じる大講堂の政所
かつては、「教光坊」と称されていた
1684年(皇紀2344)貞享元年
正教坊詮舜により再興されて、「瑞雲院」と改称された
1973年(皇紀2633)昭和48年
瑞雲院住職 岡野正道夫妻により再建される
<已講坂(いこうざか)>
鐘楼からの下り坂
已講が、4年に一度行われる法華大会で講師を務めるために、この坂を登って大講堂に向かうため名付けられた
<登天天満宮>
已講坂の途中にある
祭神:菅原道真
ある時、第13世天台座主 尊意の部屋に菅原道真の霊が現れ、恨みを晴らして欲しいと頼まれる
尊意が断ると、尊意が差し出した柘榴(ざくろ)の実を食べて、口から火を吹いたという
尊意は神通力で火を避け、霊力に驚いた霊は庭の石を蹴り上げて天に昇っていったという
<大塔宮護良親王御遺跡の碑>
後醍醐天皇の皇子 大塔宮護良親王の遺跡
6歳のときに、尊雲法親王として、梶井門跡三千院に入る
1327年(皇紀1987)嘉暦2年と1330年(皇紀1990)元徳2年に、第116世・118世天台座主となる
1331年(皇紀1991)元弘元年 元弘の変
後醍醐天皇の幕府に対する変では、還俗し、比叡山の僧兵を統括して参戦した
建武の新政では、征夷大将軍、兵部卿に任じられる
1334年(皇紀1994)建武元年
後醍醐天皇と反目し、皇位簒奪の冤罪により失脚・幽閉され、その後、足利直義により殺害される
<傳教碑>
開祖 最澄の大師号の「傳教」の2字が刻まれている
文字は、天台宗大僧正で書道家の豊道慶中師の筆
裏面には、最澄が初めて根本中堂薬師如来のご宝に灯明をともされたときの御歌が、春海翁の筆で刻まれている
<漢俳碑>
比叡山開創1200年にあたり、中国仏教協会会長 趙樸初から漢俳5首が贈られた
第1首は、比叡山が日本文化の育ての親であり、その徳風を蒙った人は計り知れない
第2首は、比叡山開祖の最澄の流れをくんで開かれた日本大乗仏教各派は、1200年前の恩徳を忘れない
第3首は、過去1200年、比叡山と中国 天台山は、東西相照らして大乗仏教の花を咲かせた
第4首は、日中両国仏教徒は、1200年間積み重ねた友情を未来永劫発展させよう
第5首は、同朋互いに心を合わせ世界の和平のために力を尽くし、大師の御加護をいつまでも
1987年(皇紀2647)昭和62年8月2日
比叡山・天台山・五合山の日中三山合同法要が行われ除幕した記念碑
<伝教大師童形像>
<山家学生式>
天台法華宗年分学生式一首
「国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。
道心ある人を名づけて国宝と為す。
故に古人言わく、径寸十枚、是れ国宝にあらず、一隅を照す、此れ則ち国宝なりと。
古哲また云わく、能く言いて行うこと能わざるは国の師なり、能く行いて言うこと能わざるは国の用(ゆう)なり、
能く行い能く言うは国の宝なり。
三品(さんぼん)の内、唯言うこと能わず、行うこと能わざるを国の賊と為す。
乃ち道心あるの仏子、西には菩薩と称し、東には君子と号す。
悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。」
<宮沢賢治の歌碑>
比叡十二首の冒頭に詠まれている歌
「ねがはくは 妙法如来 正遍知 大師のみ旨 成らしめたまへ」
1957年(皇紀2617)昭和32年の建立
宮沢賢治は、熱心な法華経信者で、詩「雨ニモ負ケズ」は、法華経・常不軽菩薩の真理を表すといわれる
9月21日には、賢治忌法要会が行われている
<蓮如堂>
本願寺8世 蓮如上人が、17歳から5年間、念仏修行を行ったところ
比叡山修行時の蓮如像と、本願寺8世時の二つの像が祀られている
蓮如上人は、念仏修行の日々を、竹の柱にむしろ壁の住まいで、冬は蚊帳を身にまとい寒さをしのいだといわれる
ある時、東江州の弥七という信者が訪れ、麦粉(はったいこ)と緑茶を差し入れると、
蓮如上人は「こんな御馳走を食べたことがない」と喜んだといわれる
以後、蓮如上人は「麦粉上人」と称され、弥七は「金ヶ森の道西」と称して、蓮如上人の布教を助けたといわれる
<法然上人堂>
法然上人が、出家得度を行ったところ
「法然上人得度御旧跡」の碑が建つ
<栄西禅師修行の地>
臨済宗千光派の祖 栄西禅師の修行の地
14歳で比叡山で出家し、天台教学、基好に密教を学んだ
<慈眼大師天海大僧正住坊跡>
東塔南谷にある
慈眼大師 天海大僧正は、徳川家の三代にわたり、宗教・政治の意見番として活躍した
1571年(皇紀2231)元亀2年9月12日
織田信長の焼き討ち後の復興に尽力し、三代将軍 徳川家光を説いて再建が行われた
東叡山寛永寺を開山し、比叡山教学を関東に定着させ、日光山を造営した
この地の下の谷にあった本坊 南光坊に、73歳から4年間住んだといわれる
99歳で、東麓の慈眼堂に移り、108歳まで長生きされた
<山王院(千手堂)(後唐院)(法華鎮護山王院)>
千手観音菩薩が安置されている
延暦年間(782年〜806年)
最澄が、鎮守山王権現を勧請して創建したといわれる
その後、円珍が天台座主のときの住坊となる
円珍が、中国 唐から持ち帰った経典章疏などを所蔵した山王蔵がある
円珍の死後、遺骨を納めた二体の真像のうち一体を安置された(もう一体は、三井寺 唐院に納められた)
1706年(皇紀2366)宝永3年
護心院義元を願主として、宝篋印塔が建てられた
<弁慶水>
山王院の近くの湧水で、現在も東塔の水源になっている
かつて西塔に住んでいた武蔵坊弁慶が、千日間、この水をくんで千手堂(山王院)に参籠したといわれる
寛平法皇が、この水を飲んで、「千手水」と号したといわれる
武将 平清盛が、熱病にかかり、この水で浴したといわれる
西塔は、東塔から徒歩で20分程のところにあるエリア
静寂な林の中に、主要な修業施設のお堂が点在している
<釈迦堂(しゃかどう)(転法輪堂(てんぽうりんどう))(西塔中堂)(本堂)(重要文化財)>
西塔の中心となるお堂で、急な石段の坂道を下った一番奥に建つ
本尊は、最澄の自作といわれる秘仏 釈迦如来立像(重要文化財)で、御前立(おまえだち)の仏像が置かれている
脇侍に文殊菩薩・普賢菩薩・梵天・帝釈の四天王、山王社、八所明神、慈覚大師像が祀られている
桁行7間、梁間8間、単層入母屋造、栩葺形銅板葺瓦棒付
外陣は床張り、内陣に一段低い土間があり、内陣土間中央に宮殿があり本尊が安置されている
正面柱間はすべて戸口になっている
側面は、前2間が戸口、他は連子窓が板壁、縁が正面・側面の一部に付く
天台建築様式の代表的な建物
834年(皇紀1494)天長11年
第2世天台座主 円澄により創建される
織田信長の焼き討ちにより焼失
1595年(皇紀2255)文禄4年
豊臣秀吉が三井寺園城寺(弥勒堂)の金堂を移築させる
建立されたのは1347年(皇紀2007)正平2年/貞和3年で、比叡山の中で最古の建物
1959年(皇紀2619)昭和34年
解体修理、復元される
1998年(皇紀2658)平成10年9月
台風により、裏の杉の大木が堂の上に倒れ、屋根の2ヶ所が大きく損傷した
その後、屋根の修復工事が行われ完全に復旧されている
<担い堂(にないどう)(重要文化財)>
法華堂と常行堂と、朱色の全く同形の2棟の堂が左右に並んでいる
2つの堂は背面が廊下で連絡しており、全体の形が天秤棒に似ていることから「にない堂」とも称される
比叡山の僧兵だった武蔵坊弁慶が、渡り廊下を持ち、担ぎ上げたことから「担い堂」と称されるようになったともいわれる
かつて、このような2つの堂は、東塔と横川にもあったという
ある時、彫刻を得意とする若い僧が、担い堂で修行していたとき、一匹の狸を彫ると、その夜、その狸が夢に現れて、
千匹彫るようにいわれる
一日に一匹、千匹の狸を彫りあげ、千日回峰行を満願したといわれる
それら全ての狸は、眉が一文字に結ばれており「一文字狸」と称される
<法華堂(ほっけどう)(重要文化財)>
担い堂の右(東側)にある
本尊 普賢菩薩が祀られている
方5間、一重、宝形造、正面に向拝1間、屋根は栩葺
法華経に基づく半行半坐三昧(四種三昧のうちの止観行)の天台止観実修道場
7月から9月には、三年籠山の僧の修行場になっており、法華三昧(座禅をし続ける行)の修行が行われる
825年(皇紀1485)天長2年
円澄と延秀により建立され、普賢菩薩、最澄筆の法華経が安置される
1595年(皇紀2255)文禄4年
現在の建物が再建される
<常行堂(じょうぎょうどう)(重要文化財)>
担い堂の左(西側)にある
本尊 阿弥陀如来が祀られている
方5間、一重、宝形造、正面に向拝1間、屋根は栩葺、蔀戸
常行三昧道場として用いられており、四種三昧の内の常行三昧(念仏行)は、不眠不休で南無阿弥陀仏と唱え、
阿弥陀如来の周りを廻り続ける修行
893年(皇紀1553)寛平5年
静観、顕祚により創建される
1595年(皇紀2255)文禄4年
現在の建物が建立される
<米田雄郎の歌碑>
法華堂の近くにある
米田雄郎は、蒲生町極楽寺の住職で歌人でもあり、その辞世の歌
「しづやかに輪廻生死の余なりけり、はるくるそらのかすみしてけり」
<親鸞聖人ご修行の地の碑>
にない堂の手前の参道の向かって左側に石碑が立っている
親鸞聖人が、この地にあった聖光院で念仏三昧の行を行ったといわれる
<親鸞聖人旧跡の碑>
<聖光院跡の碑>
親鸞聖人が修行した寺跡
<真盛上人修学之地>
<椿堂(つばきどう)>
西塔エリアに入って最初のお堂
宝形造、銅板葺、正面に向拝
本尊の十一面観音菩薩が安置されている
90日間一日も休むことなく座禅して座り続ける常坐三昧道場として用いられている
聖徳太子が、比叡山に宝塔が現れるのを見て比叡山に登られ、常に護持していた観音菩薩像を祀り、
お堂の傍らに、使っていた椿の木の杖をさして置いたところ、そこから椿の芽が出て大きく育ったといわれる
お堂の左手に、椿の木が植えられている
<椿堂 鐘楼>
<恵亮堂(えりょうどう)>
釈迦堂に向かう坂道の右側に建つ
西塔の発展に尽力し、西塔宝幢院の検校となった大楽大師 恵亮和尚を本尊として祀る
江戸時代初期の創建
恵亮和尚は、円仁の門流で、顕密二教の達人といわれ、山内で最も修力霊験にすぐれていたといわれる
妙法院を創建し、そこで死去している
<円戒国師寿塔>
恵亮堂のそばに建ち、脇には石仏が並んでいる
寿塔とは、生前墓のことで、円戒国師が、黒谷青龍寺に隠棲される直前に建立された
1571年(皇紀2231)元亀2年9月12日
織田信長の焼き討ちで破壊される
1839年(皇紀2499)天保10年
知恩院二品尊超親王 西教寺27世 真尚ら8人の施主により建立される
<居士林(研修道場)>
釈迦堂の前の右側
一般の人が写経、座禅などの修行を行うところ
<箕淵弁財天(みのふちべんざいてん)>
比叡山三弁財天の一つ(東塔 無動寺の弁財天、横川の箸塚弁財天)
<真盛上人修学之地の石碑>
西塔南谷に南上坊(なんじょうぼう)があり、後に、眞乗院が建立されたといわれる
<西塔政所>
西塔の事務を行うところ
<法然上人ご修行地 青龍寺の碑>
<仏足跡>
<釈迦如来>
<相輪とう>
金剛製相輪、高さは約13.6m
正式には「浄菩提心無垢浄光摩尼幢相輪とう」と称する
823年(皇紀1483)弘仁14年
最澄により宝幢院(ほうどういん)が建立されていた
塔内に法華経、大日経、22部58巻の経典・銘文が納められていた
西塔の由来となった山城宝塔院とは別で、宝塔院と相輪とうの二つが並立していたといわれる
現在は、宝幢部分だけが立てられている
芯柱上に相輪(九輪)を付け、インドにある塔の原型といわれる
1895年(皇紀2555)明治28年
現在の物が、改鋳造された
<六所社>
相輪とうの近くの林にある
宝幢院の鎮守社であり、恵亮により勧請された
伊勢社、山王社、八幡社、賀茂社、鹿嶋社、熱田社が祀られている
<香炉ヶ丘弥勒石仏(釈迦石仏)>
花崗岩製、約2mの石仏
円形反花座に坐して、降魔相になっている
光背は、仏身と一つの石で、二重円光、一部が欠損している
月輪内に梵字が陽刻されている
背面には、梵字で「釈迦三尊」と刻まれ、経巻を納めた奉籠孔が開けられている
鎌倉時代初期の作
1959年(皇紀2619)昭和34年に発見された
<瑠璃堂(るりどう)(重要文化財)>
西塔から黒谷へ行く途中の北谷にある
薬師瑠璃光如来が安置されている
唐様、入母屋造、桧皮葺、方形約5.8m
斗きょうは出組、格天井
かつて、古仙霊堀があり、最澄が自作の薬師如来を祀ったことが由来ともいわれている
元慶年間(877年〜885年)
本尊が光を放ち、京を照らし、陽成天皇が光源を探したところ、この地に行きつき、放光院の号を贈ったともいわれる
村上天皇の勅命により、天台座主延昌が梵刹を建てて、薬師大像・日光月光十二神将を安置したといわれる
現在の建物は、室町時代末期の建築
織田信長の焼き討ちをまぬがれた唯一の堂といわれる
<瑠璃堂 舜公碑銘>
1571年(皇紀2231)元亀2年9月12日
織田信長の焼き討ちの後、正教坊舜公が、豊臣秀吉の寄進により、西塔・釈迦堂を再興し、その功績と生涯が記されている
1737年(皇紀2397)元文2年の藤原常雅の撰
<正教坊>
瑠璃堂の近くにある
<伝教大師尊像>
西塔の北、峰路レストランの駐車場端に立てられている
横川(よかわ)エリアは、西塔からさらに奥へ約4kmほどのところ
慈覚大師 円仁によって開かれ、恵心僧都 源信・親鸞聖人・日蓮・道元など名僧たちが修行を行ったところといわれる
<横川中堂>
横川の中心となる大堂
慈覚大師 円仁の作といわれる本尊 聖観音菩薩(重要文化財)が祀られている
舞台造、屋根は遣唐船に似せて船形となっており、全体的に船が浮かんでいるように見える
お堂の中央部が2m程下がっており、船底を模したためといわれる
新西国三十三箇所観音霊場第18番札所
848年(皇紀1508)嘉祥元年
根本観音堂として創建される
1942年(皇紀2602)昭和17年に落雷で焼失
1971年(皇紀2631)昭和46年
現在の鉄筋コンクリート造のお堂が再建される
<横川中堂 首楞厳院(しゅりょうごんいん>
「根本観音堂」とも称される
鉄筋鉄骨コンクリート製、銅板葺、舞台造、石垣は穴太衆積
848年(皇紀1508)嘉祥元年
円仁により建立される
1571年(皇紀2231)元亀2年9月12日
織田信長の焼き討ちにより焼失する
1584年(皇紀2244)天正12年
豊臣秀吉により再興される
1604年(皇紀2264)慶長9年
淀殿により改修される
1942年(皇紀2602)昭和17年
落雷により焼失
1971年(皇紀2631)昭和46年
現在の建物が再建される
<根本如法塔(横川如法塔)>
多宝塔
慈覚大師 円仁が、3年に渡り法華懺法、四種三昧を行い、如法塔を建立し、書写(如法写経)した法華経8巻を納めたといわれる
恵心僧都 源信が、釈迦如来、多宝如来を祀り、法華経1000部を埋められた
1571年(皇紀2231)元亀2年9月12日
織田信長の焼き討ちにより焼失する
1925年(皇紀2585)大正14年
現在の建物が、実業家 山口玄洞により再建される
設計は、安井楢次郎(京都府技官)
そのときに、一条天皇中宮 上東門院施入の金銅経箱「宝相華唐草手彫経箱」(国宝)などが発掘された
<元三大師堂(四季講堂)本堂>
中興の祖 慈恵大師 良源の住坊 定心坊が置かれていた住居跡
入母屋造、銅板葺単層、桁行5間、梁間4間正面中央双折唐戸、左右を蔀戸、舞戸、縁高欄
967年(皇紀1627)康保4年
村上天皇の勅命によって、一年に渡り法華経の論経、論議が行われ「四季講堂」とも称される
当初は弥勒菩薩が本尊になっていた
良源の没後、その画像が安置されている
1652年(皇紀2312)慶安5年
後水尾天皇の御願により再建された
1月3日(生誕日)と、9月3日(入滅日)に元三会が行われる
毎日、院内住職の輪番で厳しい勤行が行われており、「看経地獄(かんきんじごく)」と称される
元三大師は、「角大師(つのだいし)」「木葉大師」「鈴振り大師」などともとも称される
角大師の姿をした護符が授与され、魔除けの護符とされている
元三大師はおみくじの発案者ともされており、おみくじ発祥の地
<元三大師堂 旧恵雲院(向い堂)>
鷄足院灌室と向かい合っているため「向い堂」と称される
<元三大師堂 鷄足院灌室>
<元三大師堂 角大師の碑>
<伝教大師尊像>
最澄の巨像が、峰道ドライブイン駐車場の隅に立っている
峰道は、西塔から横川に至る約3.7kmの道で、行者が通る修禅峯道といわれる
<龍ヶ池弁財天>
九頭龍池(くずりゅういけ)に祀られている
かつて、坂本や仰木に現れて暴れていた大蛇がおり、それを良源は「神通力があるならば、さらに大きくなれ」といい
大蛇は大きくなってみせ、次に「今度は小さくなり、この掌の上に乗れ」というと、一寸足らずに小さくなった
良源は、すぐに大蛇を握り潰し、この池に封じ込めたといわれる
その後、この地に弁財天が勧請され、その使いにされたといわれている
<竜王社>
龍ヶ池の畔にある
<三十番神社>
龍ヶ池の畔にある
<護法石(影向石)>
横川中堂の入口脇にある
比叡山の守護神の鹿島明神、赤山明神が現れた石といわれる
<一念寺跡>
かつては、横川中堂の政所(まんどころ)が置かれて、所管の事務や所領経営などの雑務が行われていた
台風による倒木で倒壊したといわれる
<赤山宮(せきざんぐう)>
比叡山を守護する赤山明神が祀られている
<虚子之塔>
1953年(皇紀2613)昭和28年
高浜虚子の生前墓として建立された
死後に、遺骨が分骨されている
高浜虚子は、椿が好きで周りに植えたといわれる
<高浜虚子の句碑>
「清浄な月を見にけり峰の寺」
<星野立子の句碑>
「御僧に別れ惜しなや百千鳥」
星野立子は、高浜虚子の次女で俳人
<道元禅師得度霊跡の石標>
急な下り坂を下がったところに得度霊跡がある
<承陽大師得度霊跡の碑>
<道元禅師得度霊跡>
道元の戒師だった公円の自坊 寂場坊(寂場堂)があった
<独股水>
道元禅師得度霊跡内にある
現在も湧水している
最澄が、論敵 南都の法相宗の僧 徳一を伴い山に登ったとき、水がなく修道ができないとして
独股杵(とっこしょ)により地を穿ち湧水したといわれる
<箸塚弁財天>
良源は、最澄にならって千僧供養を行い、そのとき使用した箸を埋めて弁財天を祀った
1571年(皇紀2231)元亀2年9月12日
織田信長の焼き討ちの後、衰微していく
1594年(皇紀2254)文禄3年
龍樹院の行者 乗俊が、竹生島の弁天に参詣して帰るときに、一匹の白蛇が舟に乗り込んできた
その白蛇を弁天の分身として、この地で供養を行い、祠を建てようとしたときに、再び白蛇が現れたといわれる
<比叡山行院>
学生たちの修行道場
伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を受ける前に行う、十八道法・金剛界法・胎蔵界法・護摩法の四修法の
四度加行(しどけぎょう)が行われている
<甘露山王社>
<弥勒石仏>
<元三大師良源御廟(みみょう)>
香芳尾(かぼうお)という横川最北地にある
西からの龍馬場(たつがばんば)と、東からの猿馬場(さるがばんば)という2つの参道が通じている
御廟は、慈恵大師 良源の遺言「御遺告」に則り、「横川式廟墓」と称される
拝堂の裏に廟墓がある
塔身は八角形多面石幢のそとばによる
比叡山の三大魔所(東塔東谷・天梯権現社、横川飯室谷・慈忍和尚霊廟)の一つ
四魔所(三大魔所と東塔・狩籠丘)の一つ
かつて拝殿修復のときに、日吉山王の使いである猿の大群が、この参道から用材を運ぶのを手伝ったといわれ、
「猿馬場」と称されるようになった
回峯行者は、龍馬場から御廟に入り、猿馬場を通り、元三大師堂へ向かう
ここには、天狗が住んでおり、不浄・不信の者は懲らしめられるといわれている
<定光院>
急な下り坂を下りたところにある
日蓮が修行を行った旧跡地
<定光院 日蓮像>
左側には、日蓮守護のために現れたという三十番神が祀られている
<定光院 手水鉢>
日蓮も使ったといわれる
<定光院 滝尾大権現社>
腹と耳の神さんといわれる
日蓮は、ここで朝日曼荼羅を感得したといわれる
<定光院 日蓮聖人旧跡の石碑>
<定光院 日蓮真筆名号碑>
<秘宝館>
1967年(皇紀2627)昭和42年の建立
かつては寺宝が収蔵されていたが、現在は使われていない
良源・恵心僧都 源信が住んでいた恵心院の旧地といわれてる
<恵心院>
坂本の別当大師堂を移築された建物
恵心僧都 源信の像が安置されている
983年(皇紀1643)永観元年
藤原兼家が、慈恵大師 良源のために念仏三昧道場を建立する
源信は、恵心院の小堂に籠って「往生要集」「二十五昧式」「六道十界ノ図」「弥陀来迎ノ図」などを著したといわれる
それにより、源信は、「恵心僧都」と称されるようになった
本来の恵心院の旧跡地は、現在の秘宝館の付近といわれている
この地の兜卒谷には、往生院が建ち、儒学者 慶慈保胤らにより、二十五三昧会が催されていた
6月10日の源信の命日には、二十五三昧式の講式が唱えられ、報恩法要が営まれる
<恵心院 南無阿弥陀仏の碑>
「南無阿弥陀仏 極重悪人無多宝便唯称弥陀得生極楽」と刻まれている
<恵心院 源氏物語横川僧都遺跡の碑>
「源氏物語」の「賢木」の巻では、光源氏が天台座主により受戒し、横川僧都により剃髪する
「手習」の巻では、入水した浮舟を「横川のなにがしの僧都(恵心僧都 源信)」が助けた
<元三大師の御燈明(みあかし)>
眼下に琵琶湖が見える
良源が、一年に一度、この地から火を焚いて麓の母親に無事を知らせていたといわれる
<覚超僧都廟>
横川の南端の山中にある
覚超は、「兜率先徳」とも称し、平安時代中期に和泉国に生まれ、天台宗の僧となる
良源や恵心僧都 源信に師事し、鎌倉時代初期の神仏両部思想を確立した慶円に密教を学んだ
兜率院や首楞厳院に住んでいた
最勝講の講師や、東三条法華八講の聴衆を務める
1029年(皇紀1689)長元2年に権少僧都に任じられた
<黒谷 青龍寺>
西塔地区から約1.5km離れた黒谷にある
法然上人が修行した場所といわれる
法然上人二十五霊場 特別霊場 御詠歌
「たつ杣や 南無阿弥陀仏の 声引くは 西に誘う 秋の夜の月」
<浄土院(伝教大師御廟)(法華清浄浄土院)(極楽浄土院)>
東塔地区から徒歩約15分のところにある
拝殿の背後に宗祖 最澄の廟があり、比叡山内で最も神聖な場所とされている
廟前に常香盤が置かれ、常に香りを放っている
6月4日、一年に一度だけ、最澄の命日法要「長講会」のときに廟の扉が開かれる
廟の脇には、沙羅双樹、菩提樹が植えられている
12年間の籠山修行の侍真僧(じしんそう)により、毎日、最澄が今も生きているかのように食事を奉仕されている
侍真僧は、最澄の定めた「山家学生式」に示された山修山学、霊空光謙が定めた「開山堂侍真条例」に基づき、
12年間、午前3時半の出定(起床)から、21時の入定(就床)まで、定められた勤行・修法を欠かさず行う
822年(皇紀1482)弘仁13年6月4日
最澄が、56歳で死去される
854年(皇紀1514)仁寿4年7月
慈覚大師 円仁が、最澄の遺骸を移して安置される
拝殿は、江戸時代中期の建立といわれる
平唐門は、1921年(皇紀2581)大正10年の建立
<無動寺明王堂>
根本中堂から南へ1.5kmほど離れたところにある
千日回峰行の拠点となっている
不動明王と弁財天が安置されている
865年(皇紀1525)貞観7年
回峯行の創始者とされる相応和尚(慈覚大師 円仁の弟子)により創建される
<西尊院堂>
比叡山頂に向かう道と奥比叡ドライブウエイの分岐点にある
「大弁財天」の赤い鳥居が立つ神仏習合のお堂
<金銅経箱(国宝)>
平安時代後期の金属工芸
横川から発掘されたもの
<宝相華蒔絵経箱(国宝)>
平安時代後期の漆工芸品
<七条刺納袈裟、刺納衣(国宝)>
最澄が持ち帰った、唐時代の染織遺品
<伝教大師将来目録(国宝)>
最澄が、唐の越州から持ち帰った経典類の自筆の目録
<羯磨金剛目録(国宝)>
最澄自筆の請来品目録
<天台法華宗年分縁起(国宝)>
最澄の筆
<六祖恵能伝(国宝)>
最澄が持ち帰った、唐時代の写本
<伝教大師入唐牒(国宝)>
最澄の唐での通行許可書
<光定戒牒(こうじょうかいちょう)(国宝)>
嵯峨天皇の筆
<木造 釈迦如来立像(重要文化財)>
転法輪堂(釈迦堂)の本尊の秘仏
最澄の自作といわれる
<木造 聖観音菩薩立像(重要文化財)>
横川中堂に安置されている
<薬師如来立像>
根本中堂の中央の厨子に安置されている秘仏
最澄の自作といわれる
1988年(皇紀2648)昭和63年
開創1200年記念に開扉された
<不滅の法灯>
根本中堂の本尊の厨子前の釣灯篭
最澄の時代から絶やしたことがないという「不滅の法灯」が灯っている
織田信長の焼き討ちで一時途絶えたが、山形県 立石寺に分灯されていたものを移されて伝わっている
<製鉄炉>
2006年(皇紀2666)平成18年2月
延暦寺横川中堂の東の県道の建設に伴う調査で、
鉄鉱石を溶かす製鉄炉の跡(縦約1.2m・横約0.5m)と、
燃料の木炭をつくる木炭釜の跡(高さ約3m・幅約1.7m・奥行き約9.1m)が1基ずつ見つかる
製鉄炉は、粘土のブロックを積み上げた「バスタブ型」で、鉄を造るごとに取り壊して谷に捨てたとみられる
第3世天台座主円仁が、横川中堂や総寺院を開いて基礎を確立した時期のものとみられる
<山法師>
延暦寺の僧兵(そうへい)のこと
白河法皇は、自分の意のままにならないものとして(天下の三不如意)、
「賀茂川の水(鴨川の流れ)・双六の賽(サイコロの目)・山法師(比叡山の僧兵)」をあげて、
僧兵の横暴を嘆いたといわれる
<雲母坂>
修学院離宮横を通って、比叡山の弁慶水・山王院を経て根本中堂に通じる最短コース
<天台座主>
日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)
天台宗の諸末寺を総監する役職
宗祖伝教大師最澄からの法脈を相承し、天台宗徒および檀信徒の敬仰する天台宗の信仰の象徴的存在