玉鳳院(ぎょくほういん)は、JR嵯峨野線 花園駅の北にある臨済宗 大本山 妙心寺の塔頭
妙心寺境内の中央部、主要伽藍の東側にあり、蓮池の北側の東西参道に面して、東海庵の東向い、開山堂の西隣にある
花園法皇の離宮を禅寺に改めた花園天皇の塔所で、妙心寺の発祥の地とされる、48の塔頭の中でも最も由緒ある塔頭
妙心寺四派のいずれにも属さず、各塔頭の住持により法事が行われる
西側から、庫裏・方丈(玉鳳禅宮)・渡廊・開山堂(微笑庵)が一直線上に建っている
表門を入って正面が庫裡で方丈へ続く、方丈と開山堂が、渡り廊下で結ばれており、渡廊の北に祥雲院殿霊屋が建っている
渡り廊下の北と南に庭園が造られている
<向唐門>
方丈の南前にある正門
唐破風屋根が前後に付いている
寛文年間(1661年〜1673年)
大阪の淀屋辰五郎の寄進といわれる
<四脚門(重要文化財)>
開山堂前に南面して建つ平唐破風門
檜皮葺、一本彫成の唐破風が両横にあり、懸魚、桁隠、梁、冠木、蟇股がある
四脚門は、一般的に平安時代以降に貴族住宅に多く用いられる
応仁の乱での焼失から逃れられており、破風板・懸魚・桁隠し・梁・冠木・蟇股などは、創建当初のもの
1409年(皇紀2069)応永16年
後小松天皇から、御所の南門を寄進され移築され、勅使門とされていた
1601年(皇紀2261)慶長6年
現在の場所に移された
門には、応仁の乱の鏃(やじり)の跡が残っている
応仁の乱で、全焼したときに、唯一、焼失を免れた建物
現存する、最古の唐門
<方丈>
開山堂の西に建ち、渡り廊下で結ばれている
桁行18.7m、梁行10.8m、単層、入母屋造、檜皮葺、寝殿風の建物
花園法皇の離宮跡で、仙宮を模している
正面南に室中、正面の北に仏間、仏間の奥に拝所・昭堂、東北に上間(上段の間)の一の間、上間の二の間、
西北に下間一の間、西南に下間二の間がある
中央奥の昭堂に、花園法皇の法体姿の木造が安置されている
前方下段の東側には、徳川家康や徳川家の位牌、
西側に豊臣秀吉、織田信長、織田信忠、武田信玄などの位牌が安置される
上間一之間は、「拈花室(ねんげしつ)」と称される
正面の「玉鳳禅宮」の扁額は、後花園天皇の宸筆
襖絵は、金地着色の「秋草図」は狩野益信の筆
「麒麟図」「花鳥図」「龍図」「山水図」「牡丹図」は狩野安信の筆
「桐鳳凰図」は作者不明
創建当時の建物は、応仁の乱で焼失
1656年(皇紀2316)明暦2年の再建
<開山堂(重要文化財)>
方丈の東にある
妙心寺山内でも、最も神聖な場所
堂内には、室町時代以来、常夜灯と常香盤が絶えることがないといわれる
「微笑庵(みしょうあん)」とも称され、南正面に扁額が掲げられている
正面三間(桁行)、梁間四間(奥行)、一重、入母屋造、本瓦葺
唐様の禅宗様三間堂(ぜんしゅうようさんげんどう)の代表建築
広い一室で、床は四半敷の敷瓦、前に礼堂(らいどう)、後ろに祠堂、相の間がある
天井は鏡天井、拝所の天井は格天井、
小仏壇天井に円山応挙筆の鳳凰の絵が描かれている
正面 拝所の奥の昭堂に、開山 関山慧玄の尊像が安置されている
1537年(皇紀2197)天文6年
東福寺から移築されたもの
室町時代の建物で、妙心寺山内で現存する最古のお堂
1793年(皇紀2453)寛政5年
拝所、昭堂の付近が改変されている
<経蔵(重要文化財)>
桁行1間、梁間1間、一重裳階付、二重屋根本瓦葺
1673年(皇紀2333)寛文13年の創建
<玉鳳院庭園(国の史跡、名勝)>
3つの庭園からなる
いずれも江戸時代初期の作庭
・南庭
方丈と開山堂とが並ぶ南前面の、幾何学模様をあしらった枯山水庭園
一面に白砂が敷き詰められ砂紋を描き、その間に御影の切石の延段(敷石道)が直線的に置かれている
長形に盛り上げた低い白砂の砂壇が、南北に列をなしている
唐門と高塀に沿って、五葉松と黒松の大樹が2本成育している
五葉松の下は、太い幹を中心に波紋が広がっている
黒松の下は、菊水を表した模様が砂で描かれている
切石で区切られた区画ごとに、横線と縦線の砂紋が描かれている
1799年(皇紀2459)寛政11年の「都林泉名勝図会」巻四に掲載されており、現在とほぼ変わらない
・「山岳の庭」
開山堂の東にある
長方形の高い築山が築かれていて、多くの石を使って山岳風に石組みがされている
苔地に植栽がされており、上から見ると3本の鶏の足形に見える
古代インドマガダ国の仏跡の鶏足山(ククタパダ山)に見立てて「鶏足嶺(けいそくれい)」と称される
・「風水泉の庭」
方丈と開山堂とを結ぶ廊下の北側の、四方を建物で囲まれた苔地の中庭
蓬来式と須弥山様式とを併せた枯山水庭園
北側に、桃山時代初期の豪快な石組・滝組・蓬莱石の石が組まれ、中央の巨石を中心として円状に石が据えられている
「風水泉」と称される井戸がある
蓮華を刻んだ棗型手水鉢がある
苔地に自然石の飛石が置かれ、風水泉と棗型手水鉢の間を通って、北東の祥雲院殿霊屋に続いている
奥の石組の間に植栽されている
関山慧玄が、二世 授翁禅師に託して、風水泉わきの老樹の下で、行脚の旅姿で立ったまま亡くなったといわれる霊地とされる
飛石の左右の石組みが、峻厳な須弥山が表されているといわれる
<妙心寺型石燈籠(玉鳳院型石燈籠)>
南庭の開山堂の前に立つ一対(2基)の石燈籠
桃山時代のもの
宝珠は六角形の筒型、笠は円形で大ぶりの蓮単弁がある
火袋は四角形、中台は八角形の蓮弁、側面の挌狭間に唐物風の彫刻がある
竿は六角形で大きく膨らむ太鼓胴、基礎・台石は四角形、上下には塁座様に鋲形がある
<玉鳳院型手水鉢>
風水泉の庭にある
蓮葉の台石に、蓮華を刻んだ棗型(なつめがた)の手水鉢を乗せた珍しいもの
<風水泉>
開山の無相大師が、傍らで立ったまま死去されたといわれる井戸
<祥雲院殿霊屋(しょううんいんでんおたまや)>
方丈と開山堂との廊下の北の奥に建つ小廟
一間一間、一重、入母屋造、妻入、杮葺、3m四方の禅宗様建築
礎盤付円柱、正面花狭間に両開桟唐戸、床は四半瓦敷、鏡天井
豊臣秀吉と淀君との長男 棄丸(鶴松)の像が安置されている御霊屋
1591年(皇紀2251)天正19年
棄丸は三歳で死去
棄丸の後見役の石河光重の兄が、妙心寺養徳院に住していたことから、葬儀が妙心寺で行われた
棄丸が愛用していた玩具などが所蔵されている
豊臣棄丸の遺品は、豊臣秀吉が妙心寺58世 南化玄興を開山にして創建した菩提寺である祥雲寺に祀られていた
祥雲寺2世となっていた妙心寺105世 海山元珠が、徳川家康が起こした方広寺梵鐘銘事件のときに、
ただ一人「愚にもつかない誤り」と発言
徳川家康は、祥雲寺を智積院に与えてしまう
追い出された海山元珠は、豊臣棄丸坐像や遺品、南化玄興像を持ち出し、南化玄興が開祖の隣華院に移した
玉鳳院には祥雲院殿霊屋が建立され、棄丸が埋葬された
<石塔>
開山堂の東北隅に立っている
武田信玄と、武田三武将(武田勝頼・武田信勝・武田信豊)の4基の五輪石塔
北隣に、織田信長・織田信忠の2基の五輪塔
<鐘楼>
境内の西、庫裏の横にある
銅鐘は、1610年(皇紀2270)慶長15年に鋳造されたもの
<牛石>
開山堂の前にある牛の形をした自然石
開山 関山慧玄が、伊深(現在の岐阜県美濃加茂市)にいた頃、牛を使って草を刈り田畑を耕す生活をしていた
花園天皇の招請を受けて京に上るとき、その慣れ親しんだ牛が涙を流して後を追ったといわれる
この逸話に基づき、開山が亡くなって600年に当たる1959年(皇紀2619)昭和34年
滋賀県安土町の摠見寺で、この牛石が見つかり、開山堂の前に奉納された
<無相大師木像>
開山堂の拝所の奥の昭堂(亨堂)に、開山 無相大師(関山慧玄)の木像が祀られている
<花園法皇木像>
方丈の奥の昭堂に、花園法皇の法体姿の木像の木像が祀られている
<彩色 棄丸木像>
祥雲院殿霊屋に、豊臣秀吉長男 棄丸(鶴松)の像が祀られている
棄丸の菩提寺であった祥雲寺から、徳川家康に反抗した祥雲寺2世となっていた妙心寺105世 海山元珠が持ち出したもの
<棄丸玩具(重要文化財)>
豊臣棄丸が愛用していた木造玩具船や守り刀、小型武具(甲冑、鞍)などを所蔵している
棄丸の菩提寺であった祥雲寺から、祥雲寺2世 妙心寺105世 海山元珠により移された
<天井画「鳳凰図」>
円山応挙筆の開山堂の小仏壇天井の鳳凰の絵
<金地着色「秋草図」12面>
狩野益信の筆といわれる方丈の襖絵
<「麒麟図」12面、「花鳥図」18面、「竜虎図」16面、「山水図」18面、「牡丹図」9面>
狩野安信の筆といわれる方丈の襖絵
<「桐鳳凰図」4面>
作者不詳の方丈の襖絵
<開山忌>
12月11日:法堂に開山尊像が祀られ、宿忌が行われる
12月12日:開山堂で献粥の法会が行われる
参加者は、道具衣、九条袈裟、頭に烏帽子の姿で出仕する
その後、大方丈で、虚堂禅師、大応国師、大燈国師の尊像が祀られた中で、16人の僧により精進料理が供される