玉林院(ぎょくりんいん)は、紫野にある大本山大徳寺の西部にある塔頭
大坂の豪商 鴻池了瑛が、先祖とされる戦国時代の尼子家家臣 山中鹿之助幸盛を祀るために南明庵を建立し、
鴻池家の菩提寺としたとされる
<客殿(方丈)(重要文化財)>
一重入母屋造、桟瓦葺、南向き
大徳寺塔頭の本堂の中では最も規模が大きく、方丈建築の代表的な建物
禅宗寺院の客殿としては通常6間だが、西側に2間を増やして8間の広さがある
各室内の襖には、狩野探幽ら狩野派一門の絵師による70面の水墨画が描かれている
1621年(皇紀2281)元和7年に建立された
2002年(皇紀2662)平成14年から2008年(皇紀2668)平成20年まで解体修理が行われた
<南明庵(なんめいあん)(重要文化財)>
1742年(皇紀2402)寛保2年の建立
大坂の豪商 鴻池了瑛が、玉林院の大竜和尚に帰依し、先祖とされる山中鹿之助幸盛を祀るために建てたもの
単層入母屋造、柿葺で、庇屋根はローソク桟瓦葺
内部は六畳敷の仏間で、山中鹿之助幸盛の位牌が安置されている
山中鹿之助が、常に月や星に「我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったといわれており、位牌の上部には火頭窓があり、
北斗妙見菩薩が祀られている
しかし、北斗妙見菩薩は主に日蓮宗で祀られていることもあり、布で覆われている
西の「蓑庵」、東の「霞床席」などと接続して建てられている
<茶室「蓑庵(さあん)」(重要文化財)>
1742年(皇紀2402)寛保2年の建立
鴻池了瑛が、表千家7世 如心斎 天然宗左に依頼して作った茶室
藁ずさが、壁の表面に美しく浮き出て、蓑のようであることから名付けられた
三畳中板、板幅一尺寸板の中に切られている
中柱は山壁の下が広くなるように、赤松皮付のゆがみ柱が用いられている
点前座には、風呂先下地窓と二重の隅棚がある
南東隅に茶道口があり水屋に通じている
客間は、躙口前(にじりぐちまえ)に床の間を設け、南に火打構の給仕口があり、南明庵の廊下に通じている
天井は、床前半通を白竹竿縁の長杉板張、窓側掛込み天井、点前座は薄天井
<茶室「霞床席(かすみどこせき)」(重要文化財)>
1742年(皇紀2402)寛保2年の建立
鴻池了瑛が、表千家7世 如心斎 天然宗左に依頼して作った茶室
床の中央に筆返しのある二重棚があり、その奥に富士山の大幅軸を掛けると、違い棚が山の中腹に霞が
たなびいているように見える
席は四畳半、天井は、格天井(ごうてんじょう)の書院風
<茶室「洞雲庵」>
1944年(皇紀2604)昭和19年
桑山貞晴(片桐石州の師)の建立したものが再建された
<絹本著色釈迦如来像(重要文化財)>
<方丈襖絵>
1669年(皇紀2329)寛文9年
68歳の狩野探幽が、狩野派一門を指揮して描かせたものといわれる
最も東側奥にある大書院:狩野探雪による鶴図
大書院手前の礼の間:狩野探雪による楼閣山水図
仏間の前の室中:狩野探幽の最後の作でもある山水図
仏間の西の衣鉢の間:狩野益信による書画図
衣鉢の間手前の檀那の間:狩野安信による竹林七賢図と四愛図
最も西奥の西衣鉢の間:狩野益信による琴棋図
西衣鉢の間手前の西檀那の間:元々は、狩野洞春の山水図(現在は橋本菱華の花鳥図(1902年(皇紀2562)明治35年作))