日野誕生院(ひのたんじょういん)は、醍醐寺の南方、現在の宇治市との境界の近くに建つ寺院
浄土真宗の開祖 見真大師 親鸞聖人が生まれた場所で、浄土真宗門徒の聖地の一つとされる
この地、山城国宇治郡日野は、「日野の里」と称されてきた藤原北家一族の日野家の伝領地で、
北側には、日野家の氏寺である法界寺に隣接する
日野家は、儒道や歌道などで代々朝廷に仕えた公家
藤原北家の一族で、藤原真夏(ふじわらのまなつ)が始祖とされている
奈良時代後期
宝亀年間(770年〜781年)の頃
日野家の初代とされる藤原真夏(ふじわらのまなつ)は、勅使として宇治郡萱尾の山辺にさしかかった時、
ある翁(おきな)に「萱尾の翁としてあなたが来るのを千年も待っていた天押雲命(あめのおしぐものみこと)である」
「ここは仏法有縁の地である」「この地に住む心があるならば、自分の願いは足りる」と告げられ、
光仁天皇にその旨を報告したところ、この地を授かった
藤原真夏は、この地に翁(萱尾明神)を祀る社殿を建立し、別行を営み、萱尾神社を創建する
この山が奈良の春日野に似ている事から、地名を「春日野」と改めて
社殿の前に、「春日野」と記した標木を建てたが、ある日、一匹の鹿が現れ「春」の一字を食べ取り姿を消し、
それ以来、「日野」の2文字だけが残り、地名となっていった
1051年(皇紀1711)永承6年
7代目 文章博士 藤原資業(日野資業(ひのすけなり)が出家し、
この地にあった日野家の山荘を寺院に改め、胎内仏を持つ薬師如来像を祀る薬師堂を建て法界寺を建立
地名にちなんで、屋号を「日野」に改める
平安時代末期
日野有範の息子として、浄土真宗開祖 親鸞聖人が誕生し、9歳頃まで、この地で過ごしたといわれる
室町時代には、将軍家との縁戚関係を深くもった家柄
日野業子が3代将軍 足利義満の正室となり、日野業子が亡くなると姪の日野康子が後室になる
日野康子の妹の日野栄子が4代将軍 足利義持の正室になる
日野宗子が6代将軍 足利義教の正室となり、後に政略的に離別させられ、
妹の日野重子が側室となる
日野富子が、8代将軍 足利義政の正室となる
江戸時代
家禄千百石余り
子孫は、日野家を筆頭に、広橋家・柳原家・烏丸家・竹屋家・日野西家・勘解由小路家・
裏松家・外山家・豊岡家・三室戸家・北小路家の12家が存在し「真夏流」と称される
<阿弥陀堂(本堂)>
寄棟造り回廊式、平安時代初期の建築様式が取り入れられている
三方に格調高い雰囲気の回廊がつながっている
1931年(皇紀2591)昭和6年
現在の本堂が創建される
2006年(皇紀2666)平成18年
改修が行われる
<前庭>
白砂で敷き詰められている
中央に、八角の青銅製灯籠が建っている
<書院>
2006年(皇紀2666)平成18年
改修が行われる
<日野御廟>
日野家代々の墓所
日野家の真夏(まなつ)・勝光(かつみつ)・有範(ありのり)・親鸞聖人の母 吉光女(きっこうにょ)らの五輪塔がある
<発心の像>
本堂の正面に立つ
親鸞聖人の6歳の姿をした青銅像
<産湯の井戸>
親鸞聖人の産湯に使われたといわれる井戸
<ゑな塚(胞衣塚)>
親鸞聖人のへその緒が埋められたといわれる丸い塚
<歌碑>
境内の裏手に立つ
「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
親鸞聖人が、6歳の姿を写した銅像 得度式(とくどしき)に詠んだといわれる
<石碑「親鸞聖人ご誕生地」>
1986年(皇紀2646)昭和61年の建立
<本尊 阿弥陀如来像>
本堂の内陣中央の厨子に安置されている
脇侍として、左に親鸞聖人幼童の御影像、右に日野有範公の木像が安置されている
<本尊 阿弥陀如来像>
本堂の内陣中央の厨子に安置されている
脇侍として、左に親鸞聖人幼童の御影像、右に日野有範公の木像が安置されている