本満寺(ほんまんじ)は、相国寺の東、寺町通に並ぶ寺院の一つで、築地塀が、上立売通から南に続いている
後奈良天皇の勅願寺、徳川将軍家の祈願所にもなる
京都御所の丑の方角(北北東)にあり、「出町の妙見さん」と称される
広い境内が、築地塀に囲まれている
<本堂>
13間4面
日蓮聖人遺文からの写しの扁額「廣布山」がかかっている
1927年(皇紀2587)昭和2年の再建
<総門>
<表門>
<方丈>
<書院>
<客殿>
<庫裏>
<鐘楼>
<石廟>
本堂の左横にある
徳川家康の次男 徳川秀康の正室 蓮乗院の石廟
高さ約2.7m、幅約2.1m、奥行き約1.7m、内部に高さ約1.3mの石塔が収められている
調査により、極彩色の天女や仏像の浮き彫りが施されていた豪華な石造物と判明する
京都に現存する数少ない石廟
現在、高野山にある結城秀康の石廟(重要文化財)と同様の特徴を持つ「姉妹廟」の可能性があるといわれる
蓮乗院(鶴姫)は、水戸城主 江戸重通の娘で、下総国 結城城主 結城晴朝の養女となり、
徳川秀康が結城晴朝の養子となったことで、その正室となる
1607年(皇紀2267)慶長12年
徳川秀康(初代福井藩主 結城秀康)が亡くなり、その後、公家 烏丸光広の正室となる
1621年(皇紀2281)元和7年
蓮乗院が亡くなられ、同年に、烏丸光広により建立されたといわれる
2005年(皇紀2665)平成17年
1年がかりで修復され完成する
<妙見堂>
山門横に立つ
第13世 日乾上人が刻んだ能勢妙見山にあるものと同体の妙見菩薩が祀られている
妙見菩薩は、北極星、北斗七星を神格化した、宇宙万物の運気を司り支配する菩薩
洛陽十二支妙見めぐり一つで、丑(北北東)に位置する
「出町の妙見宮」と称される
1927年(皇紀2587)昭和2年の再建
<七面堂>
第14世 心性院 日遠上人が、七面山(身延山)で感得したという七面大明神(七面天女)が祀られている
<墓地>
戦国時代の悲運の名武将 山中鹿之介のお墓
山中鹿之助幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)は、戦国時代に山陰山陽八ヶ国を治める戦国大名 尼子氏に仕えた忠臣
尼子家が毛利家に滅ぼされるが、尼子氏の再興のために、京都で僧籍にあった尼子勝久を擁立し、織田信長に謁見
中国攻めの先方に任じられるが、再び毛利家の攻撃にあい丹波へ逃れる
その後、豊臣秀吉の中国遠征の先鋒に任じられ、播磨国 上月城の守護を命じられるが、
毛利軍・宇喜多軍の大軍によって上月城が包囲され、織田軍は播磨から撤退
尼子勝久は毛利に降伏して自害、山中鹿之助は毛利領への護送中に殺害された
<枝垂桜>
早咲きの大樹
<染井吉野(そめいよしの)>
地域の誇りの木
枝垂桜の後に開花する
<洗い浄行菩薩>
<石曼荼羅>
<慰霊搭>
<日蓮大上人 七百遠忌報恩記念の石碑>
<山中鹿之助幸盛墓地の石標>
江戸時代には30ほどの塔頭があったが、現在は4つの塔頭が存続している
<法泉院>
<守玄院>
<一乗院>
<實泉院>
<紺紙 金字一字宝塔法華経・観普賢経9巻(重要文化財)>
京都国立博物館に寄託
<宗祖日蓮大聖人真蹟「十界大曼荼羅」本尊 ニ幅>
<伝上宮太子筆紺紙>
聖徳太子の筆といわれる
<宗祖御絵像>
狩野元信の筆
関白 近衛尚通の寄進
「山州名跡志」によると、
もとは丹波黒田村の禅寺にあったが、仏壇の下に置かれていたところ、村人に祟りがあり、芹生の山中に捨てられ、
その山中から、昼夜、法華経読誦の声が聞こえるようになり、発見され、生福寺に引き取られたといわれる
その後、住持 日重上人が買い取って当 本満寺に安置されたといわれる
<「本満寺御書」「三大秘法鈔」>
第12世 日重上人の筆
<「報恩抄」「開目抄」>
第13世 日乾上人の筆
<石曼荼羅>
<十二支妙見めぐり>
江戸時代中期
京都御所の紫宸殿を中心に十二支の方角に、各々妙見菩薩が祀られ、12の妙見菩薩を順番に訪問して開運や厄除けを
祈願することが流行った
妙見菩薩とは、北極星、北斗七星を神格化した宇宙万物の運気を司り支配する菩薩
方位の神だけでなく、商売繁盛、厄除け、安産など、あらゆることにご利益のある神さんとして朝廷から民衆まで広い信仰を集めた
1986年(皇紀2646)昭和61年
京都の日蓮宗寺院を中心に「洛陽十二支妙見会」が発足し、十二支妙見めぐりが復活される