本妙寺(ほんみょうじ)は、東山仁王門交差点のすぐ東側にある寺院
赤穂藩の御用商人 綿屋善右衛門が建立した貝賀弥左衛門夫妻・吉田忠左衛門・吉田澤右衛門などの
お墓があり「赤穂義士の寺」とも称される
寺院が立ち並ぶ新洞仏教会地区にあり、東端の東大路通の東側には二条通から仁王門通まで、妙傳寺・聞名寺・本妙寺と並ぶ
<本堂>
重層造
1728年(皇紀2388)享保13年の創建
<山門>
<赤穂浪士らのお墓(合祀石碑)>
播州赤穂藩蔵奉行 貝賀弥左衛門は、赤穂藩の御用商人として親しかった京呉服商 綿屋善右衛門の
屋敷(現在の上京区一条通智慧光院東入)に妻と娘と共に寄宿し、
綿屋善右衛門に討ち入りの本心を打ち明け、妻子の行く末を頼む
貝賀弥左衛門は、貝賀家が代々法華宗だったことから本妙寺を菩提寺と定めた
1703年(皇紀2363)元禄16年2月4日
大石内蔵助良ら赤穂浪士が切腹
綿屋善右衛門は、切腹時の遺言を受け、赤穂義士となった貝賀弥左衛門、その実兄 吉田忠左衛門、
その息子 吉田澤右衛門(綿屋善右衛門の甥)の3名の鬢髪を得る
1704年(皇紀2364)元禄17年4月
綿屋善右衛門は、病死した貝賀弥左衛門の妻 おさんと3名の鬢髪を一緒に一つの石碑を建てて供養する
1993年(皇紀2653)平成5年3月
墓地の中央部に、新しい「義士の墓」が改修復元される
墓石の右側面には「浅野内匠頭家来墓 元禄十六癸未二月四日」(義士の命日すなわち切腹した日)、
左側面には「宝永元年四月二十三日 施主綿屋善右衛門」と刻まれている
元の石碑は義士堂で保管されている
<義士堂>
1930年(皇紀2590)昭和5年の建立
貝賀弥左衛門の子孫9代目 斉藤トラが、赤穂義士の遺品5点と遺墨70点あまりを奉納
四十七義士の木像が祀られている
<矢ツ車留吉の碑>
<石標>
門前に立っている
「赤穂義士墓 当山ニアリ」と記されている
<貝賀弥左衛門の手槍>
<赤穂義士たちの手紙>
綿屋善右衛門が、赤穂義士たちと交わしたという書状
<赤穂浪士 四十七義士の木像>
義士堂に安置されている
<鬼子母神像>
真言宗の僧から日像上人の弟子となった大覚上人の作
日像上人が開眼したものといわれる
鬼子母神は、500人の子供をもつ母親であったが、他人の子供を捕えて食べてしまうため、
釈迦が鬼子母神の末子を隠して子を失う母親の苦しみを悟らせ、仏教に帰依させたといわれる
子供守護・安産守護として信仰されている
<元禄義挙記念祭>
12月14日
赤穂義士たちの法要が営まれ、義士堂の公開が行われる
<天野屋利兵衛>
芝居で有名な天野屋利兵衛は、綿屋善右衛門をモデルにしたものともいわれている