法成寺(ほうじょうじ)は、藤原道長が自邸の土御門殿の東に建立した藤原氏の氏寺だった寺院
創建当時、大内裏の北東側一帯に位置したことから、「東北院」と称された
藤原氏の財力がつぎ込まれて、極楽往生を祈るために浄土庭園や大伽藍が造営される
藤原道長が「御堂関白」と称されるようになった「御堂」とは、法成寺のことを示す
釈尊の死去2,000年以降に仏法がすたれ天災人災が続き世の中は乱れるという「末法思想」から
藤原道長が、死への不安が高まり極楽往生を祈る場として大規模に作られた
境内は、東西2町、南北3町におよんだといわれる
九体阿弥陀堂(無量寿院)から建立され、
阿弥陀堂、金堂、五大堂、薬師堂、釈迦堂、十齋堂、東北院、西北院などがあったとされる
<浄土庭園>
末法思想から現世極楽浄土の庭園が造られる
自邸の中に、大きな池が造られ、中島が築かれ、種々の樹木や花が植えられた
浄土庭園の初期段階で、周辺環境の影響に左右されない庭園空間が造られ、仏堂群が囲むことで成立した
その後の平等院では、阿弥陀堂やお堂からの鑑賞を主体として、庭園が造られる
「栄花物語」や「源氏物語」で、当時の華やかさが伝えられる
<「御堂関白記」>
藤原道長の自筆の日記本14巻
「法成寺摂政記」とも称される
<「大鏡」>
「極楽浄土のこのよにあらはれける」と、法成寺の壮麗さを謳われた
<石標>
法成寺跡を示す石標が、荒神口通寺町東入の路傍、鴨沂高等学校校庭の塀際に残る