法輪寺(ほうりんじ)は、国の名勝嵐山の中腹に建つ寺院
平安時代には、清少納言の「枕草子」の寺の段において、代表的な寺院として記されており、
「嵯峨の虚空蔵さん(こくぞうさん)」として親しまれる
清和天皇が廃針を納めた針堂を建立したことから針供養が行われるようになり、
虚空蔵(こくうぞう)さんは、惟喬親王(これたかしんのう)の故事によりうるし祖神とされたり、
大人の智恵や福徳を授かるために十三まいりが行われる
3月下旬には早咲きの桜の名所
<本堂>
明治時代以降に再建されたもの
<山門>
<大黒天堂>
<電電宮(でんでんぐう)>
石階段の左側に立つ
虚空(こくう)とは「大空(宇宙)」のことで、自然現象を司る虚空蔵の鎮守五社明神の一つ
雷・稲妻の神さんである電電明神が祀られ、電気や電波の安全守護とされる
幕末維新の兵乱で焼失する
1969年(皇紀2629)昭和44年
電気・電力・電子・電波などを扱う業界の尊崇する神社として復興される
<電電塔>
エジソンやヘルツのレリーフも飾られている
<御針供養塔>
2月8日と12月8日に針供養が行われる
針供養法要のときには、皇室から下賜された御針が納められる
<針塚>
使用済みの針が納められる
<多宝塔>
<鐘楼>
<小督局(こごうのつぼね)供養塔>
本堂の後ろにある
<人形塚>
1931年(皇紀2591)昭和6年の建立
人形供養祭では、全国から人形が納められる
<狛牛と狛寅の石像>
本堂前にある、狛牛と狛寅の一対の石像
本尊の虚空蔵菩薩が、丑年・寅年生まれの守護であることにちなむ
右側に口を開いた阿形(あぎょう)の寅、左側は口を閉じている吽形(うんぎょう)の牛
<羊の像>
羊は、虚空蔵菩薩の使いといわれる
周りには雪柳がある
<童話碑>
北側の参道の途中に立つ
童話作家 久留島武彦により立てられる
<獣魂供養塔>
<見晴台>
紅葉を見下ろして、渡月橋など北側の町並みが展望できる
<大桂(おおかつら)>
客殿の前方にあるカツラ科のカツラ
<虚空蔵菩薩像>
秘仏の本尊
日本三大虚空蔵(奥州会津柳津の円蔵寺・伊勢の朝熊山(あさまやま)の金剛證寺)の一つ
記憶を増す求聞持法の本尊から、智恵を授かるといわれ、
知恵・芸事の上達、丑年・寅年生まれの守り本尊として信仰を集めている
虚空蔵菩薩は、大日如来の脇侍で、「虚空(こくう)」とは「大空(宇宙)」を意味する
その大空(宇宙)の中には日月・星・山川・土地・草木などあらゆる森羅万象、生物をことごとく包容し、
功徳・恵みが納められていることから、虚空の姿を宝蔵になぞらえて「虚空蔵」と称される
<木造 持国天立像(じこくてんりゅうぞう)(重要文化財)>
<木造 多聞天立像(重要文化財)>
いずれも虚空蔵菩薩像の脇侍
<針供養>
2月8日、12月8日
全国から集まった廃針の法要が行われ、裁縫や手芸技術の上達が祈願される
コンニャクを祭壇にお供え、飾り糸のついた長い針を刺して供養する
読経の後、古式装束の織姫の舞いの奉納が行われる
平安時代
清和天皇が、廃針を納めた針堂(はりどう)を建立したことが由緒といわれる
<芸能上達祈願祭>
3月10日
芸の上達を願って祈願法要が行われる
茂山千五郎家による狂言奉納が行われる
<十三まいり>
3月13日から5月13日
数え年で13歳になった子供が、これまでの成長を感謝し、
本尊 虚空蔵菩薩に記憶を増す功徳があることから、大人の智恵や福徳を授かるために参詣する
参拝後、渡月橋を渡りきるまでに、後ろを振り返ってしまうと授かった智恵がなくなるといわれる
<重陽祭>
9月9日
「重陽」とは、9月9日に、「9」という陽の数字が重なることをいい、宮中などで行われた五節句の一つ
菊慈童像が、菊の花のしずくから霊薬を得て、700歳も延命し長寿を保ったといわれる
菊の花に綿をかぶせた「菊の被綿(きせわた)」を菊慈童像に供え供養し、夜露にさらし、
翌日その濡れた綿で身体を拭き、無病息災を祈願する
菊酒を飲み、無病息災を祈願する
邪気を祓うとされる茱萸袋(しゅゆふくろ)が授与される
重陽の日に、菊の花を摘んで、乾燥させて枕に詰めて「菊枕」を作ると、菊の香により長寿になるといわれる
<人形供養>
10月15日
<うるし祭>
11月13日「うるしの日」
本尊の虚空蔵菩薩は、惟喬親王(これたかしんのう)の故事によりうるし祖神の寺とされ、
漆器業、工芸技術の守護仏として信仰されていることによる
本堂で、全国漆業連合会による祭典、茂山千五郎家による奉納狂言も行われる
<出展>
平安時代には、清少納言の「枕草子」の寺の段において、代表的な寺院として記されている
「今昔物語集」・「平家物語」などにも記されている
<法輪寺橋(法輪橋)>
現在の渡月橋
836年(皇紀1496)承和3年
空海の弟子 道昌が、現在の渡月橋より200mほど上流に橋を架けたのが由来
法輪寺が管理していたことから、「法輪寺橋」「法輪橋」と称された
亀山上皇が、夜空を渡る月の様子を眺めながら、「くまなき月の渡るに似る」と称えられたことから、
「渡月橋」と称されるようになった