道昌(どうしょう)は、平安時代初期の真言宗の僧
渡来系氏族秦氏の出身で、弘法大師空海の高弟
<宮中仏名懺悔の導師>
仏名会に参列した折に淳和天皇に召され、
淳和天皇から「君主の殺生と臣下の殺生のどちらが罪が重いのか?」と尋ねられ、
「君主は己の贅沢のために殺生を行い、その罪は重い
臣下の中には生活のためにやむを得ず殺生を行う者もいるが、君主はそれすら禁止している
従って、君主による山沢からの供御のほうが殺生の罪が深い」と説いた
淳和天皇は、贅沢のための殺生を戒め倹約を行い、貧しい者が狩漁によって食を得ることを許したという
道昌は、宮中の仏名懺悔の導師となる
後に、淳和天皇皇子の恒貞親王が、承和の変で廃太子とされ出家したとき、道昌が弟子に迎えている
<行基の再来>
勅願により大堰川(桂川)の堤防を改修して船筏の便を開き、
洪水対策として堤防を改築するなどし、桂・川岡・向日の荒地に水を引き田畑を開拓したことなどから、
「行基の再来」と称された
<虚空蔵菩薩>
道昌は、空海から「虚空蔵菩薩の霊験ある相応の地は嵯峨葛井寺である」とのお示教を受けて、
大悲の願力を発起して、虚空蔵求聞持法百日間参篭修行を行われた
(山中などに篭もり、虚空蔵菩薩の御真言(まんとら)を百万遍唱える修行)
満願の日の暁天に、道昌は、生身の虚空蔵菩薩を空中に感得し、一木を彫って虚空蔵尊像を仕上げて、
神護寺において、空海自らによる供養を経て、葛井寺に安置され、祀られたといわれる
<法輪寺>
空海から「虚空蔵菩薩の霊験ある相応の地は嵯峨葛井寺である」とのお示教を受けて、
道昌が、虚空蔵菩薩像を刻み安置して再興した
<渡月橋>
道昌が、嵐山の中腹にある葛井寺(かどのいでら)(後の法輪寺)への大堰川に架けた橋
亀山上皇が、この橋を見て「くまなき月の渡るに似たり」として「渡月橋」と命名されたとされる
<法輪寺道昌遺業大堰阯(ほうりんじどうしょういぎょうおおいあと)>
右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町
道昌が造った大堰の跡を示す石標「法輪寺道昌遺業大堰阯」が立つ