慈覚大師 円仁(じかくだいし えんにん)は、最後の遣唐僧として唐にわたり、日本の天台宗を大成させた高僧
第三世天台座主で、延暦寺の中興の祖とされる
「慈覚大師」は、没後に朝廷より賜った諡号で、朝廷から初めて「大師号」を授けられた
(後に、伝教大師 最澄や、弘法大師 空海などが授けられている)
<上善寺>
863年(皇紀1523)貞観5年
円仁によって、現在の千本今出川の地に、天台密教の道場として創建される
<清浄華院>
860年(皇紀1520)貞観2年
清和天皇の勅願により、円仁が、天台、真言、仏心、戒律の四宗兼学の禁裏内道場として、
土御門内裏(つちみかどだいり)の付近に創建される
<勝林院>
円仁が唐から声明音律学を持ち帰り、比叡山に道場を創建する
<二尊院>
承和年間(834年〜848年)
嵯峨天皇の命により、円仁が、嵯峨天皇の勅命により二尊教院 華台寺(けいだいじ)(後の二尊院)を創建する
二尊教院と華台寺の2つの寺院があったともいわれる
<来迎院>
仁寿年間(851年〜854年)
円仁が、声明の修練道場として開山する
<青蓮院(しょうれんいん)>
本尊の熾盛光如来(しじょうこうにょらい)の光の曼荼羅
創建当初のものは、円仁が中国 唐から持ち帰り、比叡山に法華総寺院を建立し勅許を得て祀ったもの
といわれるが、戦乱で焼失する
約2m四方の掛軸に描かれ、大日如来の仏頂尊、仏の智慧そのものを表す「ボロン」が梵字(ぼんじ)で記されている
天台宗最大の秘法といわれる密教の修法「熾盛光法(国家鎮護、皇室の安泰などを祈る修法)」の本尊
<真如堂>
本尊の阿弥陀如来立像(重要文化財)
「うなずきの弥陀」と称される
円仁が、完成した阿弥陀如来に「修行者のための本尊となって下さい」と、眉の間に白毫を入れようとすると、
阿弥陀が頭を横に振られたので、「それでは、山を下りて全ての人々の救済をして下さい。
特に、女性をお守り下さい」と嘆願すると、うなずかれたといわれる
洛陽六阿弥陀めぐりの一つ
<長圓寺>
円仁の作といわれる阿弥陀三尊が本堂に祀られている
<大蓮寺>
本堂の阿弥陀如来像
円仁が、晩年、比叡山の念仏堂にこもり、念仏三昧の修行をして彫った阿弥陀如来
夢の中で、阿弥陀如来が「比叡山から京都へ下りて、女人の厄難(お産の苦しみ)を救いたい」と夢告を受け、
女人禁制だった比叡山を下りて、真如堂に安置され、多くの女性たちから、安産などの信仰を集めた
その後、応仁の乱で真如堂は荒廃し、阿弥陀様が行方不明となる
深誉上人が発見した大蓮寺の阿弥陀如来が、真如堂の本尊であることが分かり、江戸幕府から返還するように
命じられるが、深誉上人が、念仏を称え続けると、満願の二十一日目の朝、阿弥陀如来像が二体に分かれ、
大蓮寺と真如堂で一体ずつ安置することになったといわれる
<城興寺>
秘仏の本尊の千手観世音菩薩
838年(皇紀1498)承和5年
円仁が、遣唐使として入唐した際、無事の帰国を祈願して船中で制作されたもの
<三鈷寺>
円仁の作の抱止阿弥陀如来(だきとめあみだにょらい)
像高は約1m
右手を胸のあたり、左手を下方に下げた姿
70歳を過ぎさらに修行に精を出していた蓮生(れんしょう)が、夢で紫雲の中にいる阿弥陀如来の姿を見る
紫雲が次第に霞んでいき必死に阿弥陀如来を追い、衣にすがり抱きしめたところで夢から覚め、
修行が足りないと悟り、さらに精進したといわれている
<光明寺>
本尊は、三鈷寺と同じ由来の抱止阿弥陀如来とされる
<曼殊院>
延暦年間(782年〜806年)
伝教大師 最澄が比叡山に鎮護国家の道場として一堂を建立したのが由来
円仁がそれを継ぐ
声明は、仏教の儀式に僧侶が唱える声楽
6世紀頃サンスクリット語(梵語)の学習のために密教とともに日本に伝えられる
円仁が、中国 山東省黄河のほとりにある魚山で声明を修得し、日本に天台声明が伝えられる
その音階名、旋律型の名称・記譜法(墨譜)・唱法などが、日本音楽の源流といわれ、
日本音楽の理論・奏法に影響を及ぼしたといわれる
円仁は、勝林院、来迎院の前身となる声明の修練道場を比叡山に創建する
一時期衰退するが、平安時代末期
融通念仏宗の開祖 聖応大師 良忍上人により、円仁が伝えた声明を統一し、魚山流声明を集大成される
<入唐求法巡礼行記>
入唐から五台山での修行を終えて長安への9年半にわたる旅を書き綴った日記
日本人による最初の本格的旅行記
皇帝 武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている
玄奘(げんじよう)の「大唐西域記」、マルコ・ポーロの「東方見聞録」とともに、三大旅行記の一つとされる
1964年(皇紀2624)昭和39年
元駐日米大使ライシャワ博士により、「東方見聞録」よりも歴史的に価値が高いと論文の中で世界に紹介された