一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧
81歳のとき、後土御門天皇の勅命により、大徳寺47世住持に任命される
晩年の約25年間、酬恩庵を復興し、盲目の女性 森侍者と一緒に暮らす
<禅風>
21歳まで弟子となっていた西金寺の謙翁宗為の教えにより、権威や悟ったことさえも否定して、庶民の中で生き抜いた
他の禅僧からは「破戒僧」と蔑まれ、庶民からは「生き仏」とあがめられた
形式主義に陥った当時の禅宗を強く批判し、自由奔放で、奇行が多かったといわれる
正月には、「門松は冥土の旅の一里塚。めでたくもあり、めでたくもなし」と言って、髑髏を持ち歩いたといわれる
木製の刀身の朱鞘の大太刀を差して街を歩き、「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」と、
外面を飾ることにしか興味のない世相を批判した
「女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む」と言い、
仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の女性 森侍者(しんじしゃ)と暮らし、実子の弟子 岐翁紹禎がいた
親交のあった本願寺門主蓮如上人の留守中に居室に上がりこみ、蓮如上人の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をしており、
帰宅した蓮如上人に「俺の商売道具に何をする」と言われたといわれる
<風狂の僧>
世間の通念や常識に拘束されずに常軌を逸した行動は、悟りの境涯を現したものとして「風狂」と評価される
直筆の法語として「七仏通誡偈」を書き残す
<漢詩>
13歳のときに作った漢詩「長門春草」
15歳のときに作った漢詩「春衣宿花」
これらは、洛中の評判となり賞賛された
晩年には、漢詩集「狂雲集」をまとめている
その他にも、「続狂雲集」「自戒集」「骸骨」などがある
<能筆>
一休は村田珠光の師であるともいわれ、一休の墨蹟が茶人に珍重されたといわれる
北大路魯山人により新三筆とされる
<酬恩庵>
荒廃していた妙勝禅寺に草庵を創建し復興させたのが由来
88歳で亡くなるまで、約25年間を過ごしたところ
後に「一休寺」と称される
一休宗純の遺髪を植え込んだといわれる等身大の木造 一休宗純坐像(重要文化財)がある
<大徳寺>
81歳のとき、後土御門天皇の勅命により、大徳寺47世住持に任命される
帰依された堺の豪商 尾和宗臨により、応仁の乱で荒廃していたところを復興された
<真珠庵>
死後に、帰依された尾和宗臨により一休禅師のために創建され、開山とされる
<地蔵院>
地蔵院の近くの民家で生まれ、安国寺に移る6才まで地蔵院で過ごしたといわれる
<十念寺>
紙本着色 仏鬼軍絵巻(ぶっきぐんえまき)一巻(重要文化財)が、一休禅師の筆といわれる
<お墓>
酬恩庵にあり「慈揚塔」と称される
宮内庁により御廟所として管理している陵墓
<「一休」の名前の由来>
大徳寺の高僧 華叟宗曇との「洞山三頓の棒」という公案(禅問答)に対して、
「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから、華叟宗曇より「一休」の道号を授かった
「有ろじ(有漏路)」とは「迷い(煩悩)の世界」、「無ろじ(無漏路)」とは「悟り(仏)の世界」のことをいう
<前将軍 足利義満との逸話>
幼少の周建(一休)は、当時の権力者である前将軍 足利義満に、師匠(安国寺の像外集鑑)とともに邸宅に招かれた
食事の中に入っいた魚を、師匠は食べませんでしたが、周建は食べてしまい、足利義満に「僧が魚を食べるとは何事だ」と詰問される
周建は「喉は単なる道で、八百屋でも魚屋でも何でも通します」と答える
足利義満は、刀を抜いて眼前に突き出し「ならば、この侍も通して見よ」と迫る
周建は「道には関所があり、それがこの口です。怪しい奴は通ることまかりならぬ」と言って平然としていた
さらに足利義満は、「この屏風の絵の虎が毎晩抜け出して困っている。この虎を縛ってはくれないか?」と周建に命じる
周建は、縄を用意してもらい、その縄を持って屏風の前に立ち、「今から虎を捕らえるので、誰か、屏風の後ろに回って虎を外に追い出して下さい」と言う
これに足利義満は感心したといわれる
<「一休咄」>
江戸時代に、一休をモデルとした頓知咄(とんちばなし)が生まれた