一遍上人(いっぺんしょうにん)は、鎌倉時代中期の僧侶
16年間、ほぼ日本全国を歩いて人々に念仏を勧め、25万1千人に念仏札を配ったといわれる
法然上人、親鸞聖人と並び、浄土教を確立された名僧とされる
後に、時宗の開祖とされる
一遍は、時衆(一遍に同行した人々)を率いて、遊行(ゆぎょう)を続け、民衆を踊り念仏と賦算(ふさん)とで極楽浄土へと導いた
一遍は亡くなる直前、所持していた経典を書写山円教寺の僧に渡し、その他の書物は「阿弥陀経」を読みながら、
焼き捨てられたといわれる
著書は残そうとせず、全国を遊行し「南無阿弥陀仏」の念仏札を人々に配る旅を続けた
一遍の教えは、後に時衆がまとめた「一遍聖絵(国宝)」「一遍上人縁起絵」、
「一遍上人語録」などの中に残されている
「一遍上人語録」には、「法師の跡とは跡なきを跡とす」と言ったと残されている
法語には、
「念仏の行者で一番心に留めておくべきことは、南無阿弥陀仏ととなえる他に何もないのである。」
と言われたと残されている
<一切衆生決定往生>
念仏を唱えれば阿弥陀如来の本願により往生可能であり、一人でも多くの人が往生できるようにすること
この願いを込めて「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」を賦算(ふさん)した
「六十万人」とは、
一遍作の頌(詩歌)「六字名号一遍法 十界依正一遍躰 万行離念一遍証 人中上上妙好華」の最初の文字を集めたもの
まず60万人の人々(衆生)に賦算し、その後、さらに60万人に賦算を繰り返すということ
一遍が作った算を受け取り、勧進帳に記名した人は、250万人に達したといわれる
<神祇観>
日本の神を祀り、神の本地である仏の徳を拝することは専修念仏の妨げとはならないとされる
熊野権現の神託や、鹿児島神宮(大隅正八幡宮)での神詠などを受け入れた
<時宗宗歌>
一遍の法語による
「旅ころも 木の根 かやの根いづくにか 身の捨られぬ処あるべき」
<時宗>
一遍を宗祖とするが、一遍には開宗の意図はなかったとされる
宗として正式に成立したのは江戸時代のこと
実質的開祖は、一遍と同行していた遊行二祖 真教上人といわれる
真教上人が、一遍の入寂後、教団を統率し、一遍の教えのままに諸国を歩き念仏を勧めた
一遍は、著書などを残そうとせず、全国を遊行し「南無阿弥陀仏」の念仏札を人々に配る旅を続けた
<一遍聖絵 全12巻(一遍上人絵伝)(国宝)>
<遊行上人縁起絵 全10巻(一遍上人絵詞伝、一遍上人縁起絵)>
一遍が描かせたもの
<一遍上人語録>
江戸時代に編纂されたもの
<木造一遍上人立像(長楽寺)>
1420年(皇紀2080)応永27年二月康秀作の銘がある
<木造一遍上人立像(宝厳寺)>
<木造一遍上人立像(当麻無量光寺)>
<市比賣神社>
一遍上人が、境内で踊り念仏を遊行したところ
<因幡薬師堂>
一遍上人の都における布教の起点になったところ
<四条京極釈迦堂染殿地蔵>
一遍上人が、踊念仏や念仏賦算を行ったといわれる
<一遍上人念仏賦算遺跡>
時宗の開祖 一遍上人が7日間滞在して賦算や踊念仏を行い極楽浄土へと導いたゆかりの地
<穴太寺>
一遍上人が参詣し逗留した
<金光寺>
金光寺32代 唐橋法印胤恵が、一遍上人の踊り念仏で帰依し、天台宗から時宗に改宗したとされる
<聞名寺>
一遍上人が中興の祖とされ、念仏道場として再興して、時宗に改め「大炊道場(おおいどうじょう)」と称される
<誓願寺>
一遍上人が念仏賦算を行った
<長楽寺>
木造一遍上人立像がある
<名前の由来>
房号「一遍」の「一」は一如、「遍は」遍満
一遍とは「一にして、しかも遍く(あまねく)」の意味がある
南無阿弥陀仏を一遍(一度、一回)唱えるだけで悟りが証されるという教え
法諱「智真」の「智」は悟りの智慧、「真」は御仏が示す真(まこと)を表す
<能「誓願寺」>
誓願寺を舞台に、時宗の開祖 一遍上人を脇役(ワキ)とする