浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)(JyouzouKisyo)

平安時代中期の天台宗の僧侶

生年:891年(皇紀1551)寛平3年
没年:964年(皇紀1624)康保元年11月21日
享年:74

父親:参議(諌議大夫殿中監) 三善清行
第八子
母親:嵯峨天皇の孫

宇多法皇の弟子

 浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)は、平安時代中期の天台宗の僧侶

 延暦寺横川や、大峯山、葛木山、那智山など修験道の聖地を巡り修行を行った

 加持祈祷に優れ、平将門の調伏、父親の蘇生、法観寺八坂の塔の傾きを法力でなおしたという故事がある

【浄蔵貴所の歴史・経緯】

【浄蔵貴所の法力・加持祈祷(かじきとう)の故事

 <出家>
 7歳の春に出家を望んだ時、「三宝の数に入りたいのであれば一つの霊力を示せ」といわれ、
浄蔵は、庭に出て、天に向かって神人を呼び、梅一枝を取らせて献上したことで、みんなを驚かせ
誰も出家を止めることができなかったといわれる

 <霊角>
 毎年7月15日に、修業者が集まり法力を戦わせる催し「霊角」があった
 浄蔵が、大きな石に祈念をして、大石を躍り上げて上下させた
 同じく神霊の力を持つ修業者が出てきて、両者が持念すると、石は動かず、遂に中程から割れて二人の前に動いて来た
 この不可思議な現象に、みんな驚いたといわれる

 <醍醐天皇の加持>
 醍醐天皇が腰を病まれたとき、浄蔵が加持を行うと病はすぐに癒え治ったといわれる
 宇多上皇は浄蔵に袈裟を賜ったが、浄蔵はその衣を着て火をつけると、袈裟だけが燃え尽きてしまう
 浄蔵は、「血に汚れた婦人が裁縫したので、焼けてしまった」と答えたといわれる

 <藤原時平
 909年(皇紀1569)延喜9年
 菅原道真の怨霊に悩んだ藤原時平を護持祈念すると、2匹の青竜が藤原時平の左右の耳から頭を出し、
「願くは時平に厳しい戒めを加えてこらしめよ」と言われ、浄蔵がその場を立ち去ると藤原時平はまもなく死んだといわれる

 <平将門の調伏>
 940年(皇紀1600)天慶3年正月
 勅命により平将門の乱を調伏するため、延暦寺横川にあった首楞厳院(しゅりょうごんいん)で三七日(21日間)の
大威徳法を勤行し、乱を鎮め、降伏させた
 その時、平将門弓矢を帯びて燃えさかる炎の上に立ちはだかったので僧兵らはみんな恐れたが
流矢の音が聞こえ、東を指して飛び去ったといわれる

 <南院親王の蘇生>
 光孝天皇の第一皇子 是忠親王が病気にかかり、多くの僧侶に加持をさせたが3日目に死んでしまった
 浄蔵は救いを請われ、火界呪によって加持をし、皇子を蘇生させ、4日間生きながらえさせたといわれる

 <父親 三善清行の蘇生>
 918年(皇紀1578)延喜18年
 浄蔵が熊野詣に行っていたとき、父親 三善清行が死去し、急いで熊野から帰ってくるが、
死後5日が経ち葬儀の列が出発していた
 浄蔵は、北橋の上で父親の葬列に出合い、その場で加持をすると、父親が蘇生したといわれる
 このことで、その橋を「戻橋」と称されるようになった

 <玄昭法師の加持>
 浄蔵の師である清涼房 玄昭法師は、真済から恨らみを受け、妖怪小僧と化して空から玄昭を襲い苦しめられていた
 浄蔵は加持により、妖怪小僧となった真済を退け、玄昭法師を救い、師から敬拝されたといわれる

 <文珠大師の化身>
 964年(皇紀1624)康保元年8月
 空也上人により六波羅において慶讃金子大般若経多会明徳が行われ、貧しい物が多く集まってきた
 浄蔵は、その中に一人の比企を見つけ驚き、上座に招いてもてなした
 比企は、ご飯を食べつくし、みんなを驚かせるが、浄蔵が加持をして見送ると、ご飯は元の通り減っていなかった
 浄蔵は「あれは文珠大師が仮りに姿を現わされたのである」と答え、みんなから崇敬を受けたといわれる

 <鉢飛ばし>
 浄蔵は、護法善神に鉢を持たせ、空を飛ばせて托鉢に行かせたこともあるといわれる
 護法善神とは、浄蔵が使役していた鬼神の守り神
 人々には、護法善神の姿が見えず、鉢だけが空中を飛んでいるように見え、恐れられていたといわれる

 <盗賊退治>
 950年(皇紀1610)天暦4年
 法観寺に滞在していた時、夜中に数十人の盗賊が侵入してきた
 浄蔵は、護法善神を使って呪縛をかけると、盗賊らは手足が動かず枯れ木のようになってしまう
 夜が明けて、浄蔵が呪縛を解き、盗賊らの罪を諭したといわれる

 <雨乞い祈祷>
 954年(皇紀1614)天暦8年
 日照りが続き、天台宗真言宗の僧侶たちが勅命を受けて雨乞祈祷をしたが、3月から6月まで一滴の雨 も降らず、
農業が全くできず、天皇も苦悩させられていた
 関白の進言におり、全国に浄蔵を探すよう勅命が出された
 丹後国の智恩寺にいた浄蔵に勅使が使わされ、「再び都には入らない」という浄蔵が説得させられる
 浄蔵は神衆苑に祭壇を設けて一日一夜の祈祷を行なうと、黒雲がおこり、神龍が舞い降りてきて二日二夜にわたって
雨が降りそそいだといわれる
 民衆たちは歌をうたい手を打ち合って歓喜したといわれる
 村上天皇は、とても感激され、僧上の位を授けられた

 <出雲大社による縁談>
 10月に出雲大社に参拝にいったとき、全国の神々が集まって、人々の縁を定めていた
 浄蔵が床の下に隠れ、その様子を聞いていると、「ここにいる浄蔵には、京の下鳥羽の仁直の娘がよかろう」と
神々が賛同して定められた
 浄蔵はそれを聞いて、「自分の心は鉄石のように堅い」と思い込んでいた
 浄蔵は、各地を巡礼をして京に戻るとき、下鳥羽の地で足の病が起こり、ある家で宿を借りることになる
 主人は丁重に迎えてくれ、娘が出てきて給仕をしてくれた
 その夜、その娘がいとも懐しげに寝所に入って来たので、名前を聞いてみると「仁直の娘」と答える
 浄蔵は、出雲大社のことを思い出し、驚いて、「我には天魔である」と叫び、娘を手許に引き寄せ、剃刀で咽を引き切って
逃げ出した
 娘の傷は浅手で助かり、その後、宮中に召されて妃となり、寵愛を受けるようになった
 その後、しばらくして、宇多上皇の更衣妃が、狂気の病にかかり、医師も祈祷師も手が付けられなかった
 浄蔵が、勅命を受けて宮中に入り、祭壇を設けて妃を縛り加持を行うと、病はすぐに癒えた
 醍醐天皇は、「浄蔵のような者は、もう現れないだろう。願わくは大唐の三蔵法師の例にならい妃を賜わって
その子孫を残させたい」と言われる
 浄蔵がその妃をよく見ると咽に傷があったので尋ねると、
「下鳥羽の実家にいたときに、僧侶によって切りつけられました」と答える
 浄蔵は「 因縁のなす所は逃れられない。これを辞退したらどのような凶事が起らぬとも限らぬ」と妃を妻とし、
二人の子をもうけた

 <法観寺八坂の塔
 八坂の塔が傾き、その方向には必ず凶事があるといわれていた
 956年(皇紀1616)天暦10年6月21日
 浄蔵は、勅命を受けて、祈念することになり、大勢のものが見学に集まった
 浄蔵は、2人の子供を左右に置いて、塔に向かって持念すると、西の方から風が吹き、塔は揺れて震動し、
吊された宝鈴が鳴り、傾いていた塔が、まっすぐに元に戻ったといわれる

 <入寂>
 964年(皇紀1624)康保元年11月21日
 74歳で、東山の現在の高台寺付近にあった雲居寺(現在は廃寺)で安らかに死去する
 その夜、寺院のまわりには、光が輝き、光の中に不動明王が現れ、児童二人が左右に付いて、霊香が漂い
花が降りそそぎ、西の空へと消えていったといわれる

【浄蔵貴所ゆかりの地】

 <金剛寺 八坂庚申堂
 本尊 青面金剛を一般の人も気軽に参拝できるようにと創建する

 浄蔵が父親 三善清行が病気をしたとき、祈祷にコンニャクを捧げたところ無事に治癒したことに由来して、
 庚申の日に一晩中、お籠もりが行われ、こんにゃく焚きが行われる

 <法観寺八坂の塔
 八坂の塔が傾いた時、勅命を受けて、祈念して塔をまっすぐに元に戻したといわれる

 <祇園祭山伏山
 御神体は、浄蔵が大峯山に入るときの山伏の姿を表している

【その他】

 <著書「胎蔵界浄蔵私記」>

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