覚信尼(かくしんに)は、鎌倉時代の浄土真宗の宗祖 親鸞聖人の末娘
直弟子 顕智らの協力を得て、東大谷に廟堂(大谷廟堂)を建立した
自らは留守職(るすしき)となって本願寺の基礎を築いた
1262年(皇紀1922)弘長2年11月
親鸞聖人が死去される
親鸞聖人は、鳥辺野の北、東山大谷の地に石塔が建てられ遺骨を納め、周囲に木棚をめぐらした簡素な墳墓に葬られる
1272年(皇紀1932)文永9年
覚信尼が、親鸞聖人の墳墓を改葬し、再婚した小野宮禅念の所有の土地を寄進して、
大谷の西、吉水(よしみず)の北方に六角の廟堂「大谷廟堂」を建立し親鸞聖人の影像(えいぞう)を安置した
覚信尼が、大谷廟堂の守護をする留守職(るすしき)となる
以後、大谷廟堂の留守職に、覚信尼の娘 覚恵上人、次に孫の覚如上人の第3代が就任した
これにより、本願寺の基礎となる
<西本願寺>
開基:覚信尼
親鸞聖人の末娘 覚信尼が、親鸞聖人の遺骨を安置する大谷廟堂を創建したのが由来
<西大谷>
覚信尼が、親鸞聖人の遺骨を現在の知恩院 山門北側の崇泰院付近に改装され、
堂を建てて影像を安置したことが由来
この廟堂は、「大谷影堂」と称され、のちに「大谷本願寺」となる
<崇泰院>
親鸞聖人入滅より10年後、覚信尼が、大谷廟堂(おおたにびょう)を創建し親鸞聖人の遺骨を改葬したところ
<日野家廟所>
中央の五輪塔が浄土真宗開祖の親鸞聖人の父親 日野有範のお墓といわれる
傍らに、親鸞聖人の母親の吉光女(きっこうにょ)・覚信尼のお墓もある