親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、鎌倉時代初期の日本の僧で、浄土真宗の宗祖とされる
自らが開宗する意志はなかったといわれ、法然上人を師と仰いで、
「法然上人によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」をさらに高め、人々に広めることに力を注いだ
寺院を持つことはせず、各地に念仏道場を設けて布教の拠点とされた
親鸞の念仏集団が盛んになることで、他の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けることになる
<顕浄土真実教行証文類(教行信証)>
親鸞が著した浄土真宗の根本聖典
冒頭で、釈尊の出世本懐の経である「大無量寿経」が「真実の教」であるとされている
阿弥陀如来の本願(四十八願)と、本願によって与えられる名号「南無阿弥陀佛」を浄土門の真実の教えが「浄土真宗」であると
示されている
<絶対他力>
阿弥陀如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま信じて受け入れたときに、浄土へ往生することが決まり、
その後は、報恩感謝の念仏の生活をすることとなる
これは、阿弥陀如来の本願力(他力)によるもので、我々の行い(自力)によるものではないとし、絶対他力であるとされる
<日野誕生院>
親鸞聖人が生まれたところ
<法界寺>
日野誕生院に隣接した親鸞聖人が生まれたところ
<青蓮院>
親鸞聖人が9歳のとき出家し、お得度の間において、後の天台座主 慈円のもとで得度したところ
門前に石碑「親鸞聖人得度聖地」が立っている
クスノキの巨樹(京都市登録天然記念物)は、親鸞聖人のお手植えといわれる
<比叡山延暦寺>
約20年間、不断念仏の修行をしたといわれるところ
<北山別院>
親鸞聖人が、得度後、1年間ほど修業をしたところといわれ、「御里坊(ごりぼう)」と称される
延暦寺から六角堂へ百日間の参籠を行ったとき、行き帰りに身を清めて修業をし、喉を潤したといわれる井戸「御聖水」がある
<六角堂>
比叡山延暦寺から100日間参籠を行い聖徳太子から夢告を得て、法然上人に帰依したきっかけとなったところ
<岡崎別院>
親鸞聖人が、草庵を営み、ここから吉水の法然上人のもとへ通ったといわれ、「親鸞屋敷」と称されていた
<山王神社>
全国行脚・布教をしていたときに、座ったといわれる足跡石・座石がある
<了徳寺>
すすきの穂を束にして筆の代わりにし十字名号を書き残されたといわれる「すすき塚」がある
<安養寺>
法然上人が、比叡山から東山大谷の吉水の草庵に移り専修念仏を開き、約30年間、本拠地としたとき、
親鸞聖人も29歳で入信してくる
<安楽寺>
法然上人と親鸞聖人が流刑になった松虫・鈴虫事件が起こったところ
<佛光寺>
越後に配流されていた親鸞聖人が、京都に帰り根本道場の興隆正法寺を創建したのが由来の寺院
<興正寺>
越後に配流されていた親鸞聖人が、京都に帰り根本道場の興隆正法寺を創建したのが由来の寺院
<光圓寺>
親鸞聖人が晩年、妻 玉日君(関白 九条兼実の娘)と過ごされ死去されたところ
親鸞聖人御入滅之地の石碑が立つ
<崇泰院>
親鸞入滅より10年後、親鸞の末娘 覚信尼が、大谷廟堂(おおたにびょう)を創建し親鸞聖人の遺骨を改葬したところ
門前に石碑「親鸞上人旧御廟所」が建てられている
<西本願寺>
親鸞聖人の末娘 覚信尼が、親鸞聖人の遺骨を安置する大谷廟堂を創建したのが由来
<東本願寺>
御影堂に親鸞聖人の御影が納められている
<東大谷>
浄土真宗大谷派の墓所
<西大谷>
浄土真宗本願寺派の墓所
<佛光寺本廟>
親鸞聖人御廟所がある浄土真宗佛光寺派の墓所
<西本願寺宗務所本願寺国際センタ>
東中筋通花屋町北東角に親鸞聖人立像が立っている
<日野家廟所>
伏見区日野にある藤原北家一族の日野家の墓所
<親鸞聖人御入滅之地>
親鸞聖人が死去されたところ
現在は、光圓寺となり、門前に石碑が立っている
<見真大師遷化旧跡>
親鸞聖人が死去された善法院があった跡地
<鳥戸野>
阿弥陀ヶ峰の南西一帯、高貴な方々の葬地だった
親鸞聖人の荼毘の地(火葬)
<雲母坂>
親鸞聖人が、9歳の時に青蓮院で出家し、比叡山延暦寺へ修学のために登った道
29歳の春頃に延暦寺と決別し、六角堂へ百日参籠を行うために、毎夜、通った道といわれる
<鳴滝の大根焚き>
親鸞聖人が、鳴滝 了徳寺に寄られて説法をし、すすきの穂を束にして筆の代わりにして、十字名号(じゅうじのみょうごう)を
書き残され、その名号を徳として、毎年、報恩講が行われるようになり、そのときに「大根焚き」が振舞われる
<親鸞聖人御影像(国宝)(西本願寺)>
親鸞聖人の「鏡御影(かがみのごえい)」と「安城御影」がある
<教行信証(国宝)(東本願寺)>
親鸞聖人が著した、浄土真宗の立教開宗の根本聖典
<青蓮院のクスノキ(京都市登録天然記念物)>
青蓮院の門前の巨大な楠(くすのき)5本
親鸞聖人の御手植といわれる
<法住寺>
親鸞聖人が自作された阿弥陀如来像、自作の自影像「そば喰い木像」がある
<歎異抄>
親鸞聖人の門弟の唯円が、親鸞聖人の死去後に湧き上がった異義や異端を嘆いて、誤りを正そうとしたもの
親鸞聖人が口伝した絶対他力の真信を、親鸞聖人没後に書きしるされた信仰書とされる
<承元の法難>
後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止と、法然上人の弟子が死罪、
法然上人は土佐国番田へ、親鸞は越後国国府(現在の新潟県上越市)に配流、5名の弟子が流罪になる