崇伝(すうでん)は、安土桃山時代から江戸時代初期の臨済宗の僧
優れた学僧で、徳川家康の信任を得て、外交僧として江戸幕府の政策に関与し「黒衣の宰相」とも称された
南禅寺の270世住職となり中興の祖とされ、塔頭金地院を再建した
<日記「本光国師日記」>
1610年(皇紀2270)慶長15年から1633年(皇紀2293)寛永10年まで20年以上、記されている
書状の写しなどが多く、社寺や朝廷に対する幕府の政策などの貴重な史料
<日記「本光国師語録」>
<「異国日記」(重要文化財)>
金地院に所蔵される崇伝が記した外交に関する記録2冊
<金地院>
現在の地に移築され再興する
方丈前庭「鶴亀の庭」(国の特別名勝)は、崇伝が、徳川家光のために小堀遠州に作らせた庭
小堀遠州の作庭であることの詳細な資料が残っている唯一のもの
崇伝が、宗教界全体の取締りを行う僧録司(そうろくし)となり、以後、幕末まで金地院が僧録司の地位にあった
<南禅寺>
崇伝が入寺し、主要伽藍の復興を行った中興の祖
<方広寺鐘銘事件>
1614年(皇紀2274)慶長19年
徳川家康から豊臣家を追い落とす方法を相談される
豊臣秀頼が豊臣秀吉の遺志を継いで再建した方広寺の大仏の梵鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」が、
「家康の名を分断し、豊臣を君主とするもの」と解釈することを提案し、豊臣氏を破滅に導いた
釈明に訪れた豊臣家の家臣 片桐且元に対して、鐘銘問題ではなく浪人召集の件を詰問し追い返す
<評判>
優れた学僧であったが、権勢の大きさと、強引な政治的策略があり、庶民には全く人気がなかったといわれる
庶民からは、「黒衣の宰相」「大欲山 気根院 僭上寺 悪国師」と称されたといわれる
大徳寺の沢庵宗彭は「天魔外道」と評したといわれる
<徳川家光>
崇伝の選定により、「竹千代」から「家光」に改名する
金地院の鶴亀の庭(国の特別名勝)は、崇伝が、徳川家光のために小堀遠州に作らせた庭
<禁中並公家諸法度>
崇伝が、江戸幕府が天皇や公家に対する関係を確立するために定めた法律を草案する