聖宝(しょうぼう)は、平安時代前期の真言宗の僧
空海の法孫
笠取山(醍醐山)の山頂に庵を創建し、醍醐寺の由来となる
宇多天皇の厚い帰依を受けて東寺長者、僧正などを務めた
<醍醐寺>
笠取山上に草庵を創設し、准胝観音菩薩と如意輪観音菩薩を彫刻し、堂宇に祀ったのが由来
聖宝により、笠取山の山頂付近を「醍醐山」と名付けられた
<東寺>
東寺の源仁(げんにん)に灌頂(かんじょう)を受ける
東寺長者にも任命される
食堂(じきどう)には、聖宝が彫った千手観音菩薩立像が本尊として祀られている
<東大寺東南院>
東大寺に東南院を建立して三論教学の拠点を築いた
<光明寺>
聖宝により真言密教の道場として中興されたといわれる
<当山派修験道の祖>
役行者が開いた大峯山(金峰山)に「峰入り」をし、修験道を、真言密教の祈りの世界を中心に理論と実践方法を大成させた
大峯山の参拝道の整備や仏像造立などを行い、「大峯山中興の祖」とも称される
<「実修実証」>
醍醐の教えの中心とされ、醍醐教学を確立された
大峯山(金峰山)を「一乗菩提正当の山」とし、修行を通して自らの心と体で学んだことを「実修」という
学んで得たことを人々のために活かして行くことを「実証」という
民間信仰である「修験道」と「密教」を融合させ、民衆の救済のために尽力した
<歌道>
「古今和歌集」に、歌が1首ある
<醍醐山の開山>
仏法相応の地を求めていた聖宝は、普明寺に祈願をしに行ったときに、近くの笠取山に五色の雲がたなびくのを見て、
その山に登ると、そこに老翁が現れて、泉の水を飲んで「醍醐味だ」とほめた
聖宝は、老翁に「ここに庵を建てて仏法を広めたいのだが、仏法の敵地でしょうか?」と尋ねた
老翁は、「ここは、かつて仏が修行したことがある山である。私はこの山の地主神だが、仏法を広め衆生を救うために、
この地を護ろう」と答え姿を消したといわれる
902年(皇紀1562)延喜2年2月7日
醍醐寺の聖宝のもとに准胝観音菩薩・如意輪観音菩薩の化身 清滝権現を名乗る神女が降臨する
唐の青龍寺に住んでいたが、そこで密教を学んだ空海から三昧耶戒を受け、「津妃命」の名をもらって、
帰国する大師を護りつつ渡日し、笠取山の東方の高嶺を居所と定め、水にちなんで名を「清滝」と改めたといわれる
<聖徳太子の生まれ変わり>
聖徳太子は、「私は日本国に三度生まれ、その名にはともに聖の字がある」と予言された
その3人が、聖徳太子、聖武天皇、聖宝とされる