慈眼大師 天海(じげんだいし てんかい)(Jigentaishi Tenkai)

桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧

生年:(推定)1536年(皇紀2196)天文5年
没年:1643年(皇紀2303)寛永20年10月2日
享年:(推定)108

法位:大僧正
法名:天海
院号:智楽院
諡号:慈眼大師(じげんだいし)
尊称:南光坊天海

出身:陸奥国

 天海(てんかい)は、桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧

 徳川家康の側近として、徳川秀忠徳川家光の徳川三代に仕え、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与し、
 江戸の地の選定、江戸城の設計、上野寛永寺や日光東照宮の建立に尽力した

 明智光秀本能寺の変のあと、山崎の戦いにおいて姿を変えて、天海として生き延びたともいわれる

【天海の歴史・経緯】

【天海ゆかりの地】

 3ヵ所に廟所がある
 <輪王寺 慈眼堂(重要文化財)>
 <喜多院 慈眼堂(重要文化財)>
 <慈眼堂(大津市坂本)(滋賀県指定文化財)>

【徳川幕府】

 <山王一実神道(さんのういちじつしんとう)>
 天海により、山王神道をもとに山王一実神道へ発展される
 山王権現とは、大日如来であり、天照大御神であると説いた

 徳川家康は駿府城で死亡し、柩は久能山に運ばれ、吉田神道の流儀で埋葬される
 家康の神号を巡り、以心崇伝、本多正純らは、吉田神道により神号を「明神」とすべきだと主張した
 天海は、山王一実神道で祀り、神号を「権現」とすることを主張
 2代将軍 徳川秀忠の諮問に対し、天海は、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られ、後に豊臣氏が滅亡したことを考えると、
明神は不吉であると提言する
 家康の神号は「東照大権現」とされ、家康の遺体を久能山から日光山に移され改葬され
 天海により山王一実神道の流儀で祀られることとなる
 家康の墓所には東照宮が建立され、天海は薬師如来の垂迹である東照大権現の由来を記した「東照大権現縁起」を編纂した
 江戸幕府は、家康が天海から東照大権現の位を受け神格化されたことで、徳川という新しい家系の地位を安定させたとされる


 <江戸の地>
 家康は、幕府を開くにあたり、天海の助言を参考にしながら、江戸の地を選んだとされる

 天海は、家康の命により伊豆から下総まで関東の地相を調べ、
 平安京と同様に「四神相応之地」の考えをもとに、江戸が幕府の本拠地に適していると判断した


 <江戸の四神相応之地
 東に隅田川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾
 富士山は、実際には真北から112度ずれているが、当時は、富士山をあえて江戸の北とみたてていた
 江戸城の大手門の向きが「北」からずれているのも、富士山を「北」とみなしたためだとされる


 <江戸城の設計>
 江戸にある上野・本郷・小石川・牛込・麹町・麻布・白金の7つの台地の突端の延長線が交わる地に、
江戸城の本丸を置くよう助言したとされる
 陰陽道により、地形の中心に周辺の気が集まることを図ったとされる

 江戸城の内部は、渦郭式という「の」の字型の構造にすることや、
城を取り囲む掘を螺旋状の「の」の字型に掘ることなどを助言したとされる
 「の」の字型の構造は、城を中心に時計回りで町が拡大していくこと、敵を城に近づけにくくすること、
火災発生時に類焼が広がるのを防ぐ、物資を船で運搬しやすくする、堀の工事により得た土砂を海岸の埋め立てに利用する
などのメリットがあったとされる


 <江戸城の鬼門・裏鬼門>
 江戸城の鬼門・裏鬼門を鎮護することも行われている
 江戸城の北東に寛永寺を建立し、住職を務めた
 平安京鬼門を守った比叡山延暦寺にならって、寛永寺を寺号「東叡山」と号し、
寛永寺の側に、琵琶湖に見立てた不忍池を築き、琵琶湖の竹生島に見立て、池の中之島に弁財天を祀るなどし、
寛永寺が、比叡山と同じ役割を果たすよう図ったとされる

 寛永寺の隣に上野東照宮を建立し、家康を祀り、
 神田神社を、元々の場所(現在の千代田区大手町付近)から、現在の湯島に移し、
 幕府の祈願所とした浅草寺で家康を東照大権現として祀り、
 江戸城の鬼門を鎮護を厚くしたとされる

 江戸城の南西(裏鬼門)の方角には、増上寺に2代将軍である徳川秀忠を葬り、徳川家の菩提寺とし、
さらに、同じ方角に、日吉大社から分祀された日枝神社を移すなどして、鎮護を図った

 江戸の三大祭、神田神社の神田祭・浅草神社の三社祭・日枝神社の山王祭は、
天海により、江戸城の鬼門と裏鬼門を浄めるために行われるとされる

 江戸城の位置は、寛永寺・神田神社と増上寺を結ぶ直線と、浅草寺と日枝神社を結ぶ直線とが交差する地点にあったとされる


 <平将門による守護>
 主要な街道と「の」の字型の堀とが交差点であり、城門と見張所がある要所に、平将門を祀った神社や塚を設置し、
将門の地霊を、江戸の町と街道との出入口に祀ることで、街道から邪気が入り込むのを防ぐように図ったとされる

 首塚は奥州道に通じる大手門
 胴を祀る神田神社は上州道に通じる神田橋門
 手を祀る鳥越神社は奥州道に通じる浅草橋門
 足を祀る津久土八幡神社は中山道に通じる牛込門
 鎧を祀る鐙神社は甲州道に通じる四谷門
 将門の兜を祀る兜神社は東海道に通じる虎ノ門に置かれたとされる


明智光秀

 突如として現れた天海が、家康の側近となり、徳川幕府の基盤を築く政策に深く関わったことで、
明智光秀が、織田信長の恐政を絶った本能寺の変のあと、山崎の戦いにおいて、天海に姿を変えて、裏で統治をしたといわれる

 天海の出生は誰も知らず、年齢的にも光秀とほぼ変わらないといわれる


 <本能寺の変
 本能寺の変があった6月2日の早朝には、家康は、信長の命で、重臣30名ほどと堺を出て、本能寺に向かっていた
 信長は、家康を暗殺するために、警戒させないように本能寺の警備を手薄にしていたとされる
 家康は、光秀から、事前に信長の自身の暗殺計画を聞かされており、平然と、京に向かって行ったとされる


 <徳川家康
 天海は、家康のブレーンとなり、家康も頭が上がらず「黒衣の宰相」と称された

 天海が江戸で初めて家康と会ったとき、
 「初対面の二人であったが、まるで旧知の間柄のように、人を遠ざけて、密室で4時間も語り合った
 側近たちは、大御所(家康)が初対面の相手と人払いして面会をしたことがなく驚かされた」といわれる

 お江(信長の妹 お市の娘)の子 家光の乳母に、明智光秀の重臣 斎藤利三の娘 春日局が選ばれている
 本能寺の変で先陣を切った武将の娘 春日局が、信長の妹の孫となる将軍の乳母・養育係にされたのは、普通ではあり得ないとされる


 <偏諱(かたいみな)>
 天海が仕えた家康の息子 2代将軍 徳川秀忠には、光秀の「秀」の字、3代将軍 徳川家光には光秀の「光」の字がもらわれている


 <天海の墓地>
 天海のお墓は、光秀の妻や娘が死んだ坂本城があった場所にもある
 その側には家康の供養塔(東照大権現供養塔)もある


 <延暦寺
 光秀は、一族や家臣の多くが死んでしまい、その霊を供養するために延暦寺で出家したといわれる
 延暦寺も、仏敵 織田信長を討伐してくれた光秀を手厚く迎えたといわれる

 比叡山の松禅院に現存する石灯籠には、「慶長二十年願主光秀」と彫られており、
 1615年(皇紀2275)慶長20年に光秀が寄進したものといわれる

 天海は、家康から比叡山探題執行を任じられ、南光坊に住して延暦寺の再興に関わっている


 <日光東照宮>
 天海が建立させた家康の墓所 日光東照宮の入口の陽明門を守護する2対の木像の武士座像が着ている袴の紋は「桔梗紋」
 桔梗紋は、明智光秀の家紋
 この武士像は、家康の干支であるの毛皮の上に座っており、「家康を尻に敷いている」といわれる

 日光東照宮の門前の鐘楼のヒサシの裏にも無数の桔梗紋が刻まれている

 日光山輪王寺にある「徳川家康公・家光公・天海大僧正御影額(1652年(皇紀2312)慶安5年)」
 2代 徳川秀忠ではなく、天海が描かれているほどの大物人物だったといわれる


 <日光明智平>
 日光の華厳の滝が見える平地を、天海が自ら「明智平」と名付けたといわれる
 あるいは、「明智平」と称されていたこの地を訪れた天海が「懐かしい響きのする名前だ」と感慨深く語ったといわれる


 <慈眼寺(じげんじ)>
 慈眼寺(右京区京北周山町)の釈迦堂には、明智光秀坐像(京都市指定登録文化財)と位牌が安置されている
 天海は、死後に朝廷から「慈眼大師」の号を追贈されている


 <慈眼大師 天海>
 天海は、死後に朝廷から「慈眼大師」の号を追贈されている
 大師号の諡号が贈られたのは、鎌倉時代以来の340年ぶりで、光秀が朝廷の脅威であった信長を葬った功績といわれる

 肥後細川家に伝わる「明智光秀公家譜覚書」には、
光秀は、本能寺の変の後、朝廷に参内して、従三位・中将に叙任された上で、征夷大将軍の宣下を受けたと記されている


 <本徳寺(大阪府岸和田市)>
 光秀の肖像画を所蔵し、位牌が祀られている
 位牌の裏には「当寺開基慶長四己亥」と記されており、本能寺の変の後の1599年(皇紀2259)慶長4年に光秀が開基したことになる


 <童謡「かごめかごめ」>
 「つるとかめがすべった」は、敦賀と亀岡を納めた光秀が統治した(陰で操った)ことを示すといわれる
 日光東照宮御宝塔(御墓所)の前に置かれている「天を飛ぶ鶴」と「海を泳ぐ亀」のことであり、
家康の側近だった天海が統治した(陰で操った)ことを表しているといわれる

 「うしろのしょうめん だあれ」は、光秀の出身地(岐阜県可児市)から、天海が建立した日光東照宮の方向を向くと、
正反対一直線方向の後ろの正面には、光秀の肖像画を所蔵している本徳寺がある


 <春日局
 春日局は、明智光秀の重臣だった斎藤利三の娘
 3代将軍 徳川家光の乳母となり、大きな権力を持ち江戸城大奥の基礎を築いた

 世の時勢的に、家康の主君でもあった信長を討った斎藤利三の娘を、家康が孫の乳母にすることはあり得ないといわれる
 また、駿府城にいた家康が、乳母の一女性から、将軍跡継ぎ問題の直訴を聞き入れ、江戸に赴き采配することもあり得ないといわれる
 さらに、武将の娘が、後水尾天皇と面談ができたのも、かつて朝廷と友好関係を築いていた光秀の計らいであるといわれる

 春日局や同僚の英勝院などが、天海(光秀)を深く信頼し、日頃から常に、江戸城内の吉凶を占ってもらったり、
家光の側室の安産祈願や、家光の子の誕生の名付けを頼んだなどといわれる

 明智光秀(天海)は、かつての重臣の斎藤利三の娘に、幕府の生活面(江戸城大奥)を統制させ、
共に江戸幕府の基礎を築き上げ、300年も続く安定した世の中の基盤を作り上げたといわれる

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