木食養阿(もくじきようあ)は、江戸時代中期の真言宗の木食僧
丹波国保津村(現在の亀岡市保津町)の武士の家に生まれる
高野山に入って、五穀を断って木の実や草などを食べる木食行を修行する
狸谷山不動院の創建、真如堂の露仏 阿弥陀如来像の造立、安祥院の再建をし、
勧進により、日ノ岡峠や渋谷街道などの改修工事や、橋の架橋などを行った
<安祥院>
五条坂に、乙訓郡大藪村にあった廃寺 安祥院を再興して、中興開山とされる
安祥院で、即身成仏して、自然石の下に葬られたといわれる
宝篋印塔が立ち、方形の敷石があり、真言宗系のお墓の様式といわれる
養阿が、改修事業を行った日ノ岡峠道に敷設されていた車石が、境内に置かれている
天神川に架橋した佃橋の橋桁石が置かれている
<真如堂>
本堂の右横に、露仏 阿弥陀如来が安置されている
養阿が、自ら作った阿弥陀如来の首の模型を担いで勧進して製造したもの
台座正面の蓮弁には、「木食正禅造立」と刻まれている
像の背面には、1719年(皇紀2379)享保4年8月15日の銘が刻まれており、
「寒夜三十日念佛修行例年墓回り成就廻向佛併書寫大乗妙典血經一部御内服納之
木食正禅造立 享保四巳亥歳八月十五日 弟子 蓮入 朋真 願真」と記されている
鋳造は、六条大宮付近の鋳物師 庄右衛門・喜兵衛によるもの
<狸谷山不動院>
1718年(皇紀2378)享保3年より17年間
内陣にある高さ・奥行き2尺ほどの洞窟で木食修行を行い、狸谷修験者の先駆となる
<泉涌寺雲龍院>
雲龍院の慧雄上人に師事して出家得度をしたところ
<日ノ岡峠>
勧進により、京都に入る交通の要所だった日ノ岡峠道の改修事業などを行った
馬や荷車などによって、深く削られて水が溜まる泥道を改修して、水が溜まらないようにして、
道の表面に車石を敷設して削られないようにした
車石は二列に並べられ、その上を馬や荷車が通り、午前と午後に分けて一方通行で往来していたといわれる
3年間にわたる工事で、1738年(皇紀2398)元文3年秋に完成し、大きな名号碑が建立された
4mほどの、石碑「南無阿弥陀佛木食正禅 粟田口寒念佛墓廻回向 享保二丁酉七月十五日」が建っている
日ノ岡峠の途中に、梅香庵を建て、峠道の管理をし、掘り当てた井戸の水を亀の口から注ぎ、旅人や牛馬などに提供し、
石の竈を設けて湯茶の接待した
現在は、亀の口が残り、奥に不動尊が祀られている
<渋谷街道>
1747年(皇紀2407)延享4年頃
渋谷街道の修築工事を行い、峠道の管理所、休憩所の梅香庵を建てた
<伏見稲荷大社境外末社 松明殿稲荷神社>
1752年(皇紀2412)宝暦2年
松明殿稲荷神社境内に井戸を掘る
境内西側に、養阿の銘のある手洗石と井戸が残る
<天神川>
養阿により、西京極に佃橋が架橋された
橋桁石が、安祥院に残されている
<木食上人>
米穀などの五穀を断って、木の実や草などを生のままで食べる木食行を修行する僧のこと
<洛陽六阿弥陀めぐり>
1717年(皇紀2377)享保2年
養阿により発願され、始められる
定められた功徳日参りを、3年3ヶ月連続39回すれば、無病息災・家運隆盛・祈願成就がかなうといわれる
1番の真如堂から6番まで、順番に巡礼することが必要といわれている