神蔵寺(じんぞうじ)は、亀岡市の西部、湯の花温泉の南の朝日山の東麓にある寺院
本堂の背後にそびえる朝日山は、回峰修行が行われていた霊山で、真東には比叡山が望める
京都府でも最も早い時期の紅葉の名所
奈良時代末期
782年(皇紀1442)延暦元年
伝教大師 最澄が、延暦寺を建立している当時、
西方に、紫雲たなびき朝日に映える山を見つけられ、最澄自ら、その地に来て寺院を建立し、
「朝日山 神蔵寺」と号して、延暦寺根本中堂の薬師如来と同木で薬師如来像を刻み、天台宗の一大道場とした
正暦年間(990年〜995年)
源氏の篤い崇拝を受けて26の仏堂・伽藍・塔頭が造立さた大寺として繁栄する
源頼光や源頼政などが帰依したといわれる
1180年(皇紀1840)治承4年
源頼政と以仁王が平家討伐の挙兵をしたとき、神蔵寺の僧兵も三井寺(園城寺)の僧兵とともに挙兵し、宇治川の戦いに加わる
源頼政らが敗れ、平家により神蔵寺の寺領は没収され、仏像のみが残った
その後、荒廃する
鎌倉時代初期
1235年(皇紀1895)嘉禎元年
天台宗の達玄僧都が往時をしのび再興される
女人禁制が解かれる
室町時代
応永年間(1394年〜1428年)
室町幕府の管領 細川頼元により修復が行われ隆盛する
安土桃山時代
1575年(皇紀2235)天正3年
織田信長の命による明智光秀の丹波平定の兵火により全焼させられる
本尊、脇侍は、信者達によって山中に隠され難を逃れる
江戸時代初期
1653年(皇紀2313)承応2年
浄土宗光明寺派の僧 願西法師により、現在の本堂・阿弥陀堂・鐘楼などが再建される
1679年(皇紀2339)延宝7年
亀山城城主 松平伊賀守忠昭が、臨済宗妙心寺派の高僧 高隠玄厚禅師により再興させる
以後、臨済宗妙心寺派に改められる
<みかえり橋>
参道にある寺谷川に架かる朱塗りの橋
<山門>
<庫裡>
<本堂(瑠璃殿)>
釈迦如来坐像が祀られている
1653年(皇紀2313)承応2年の再建
<結縁の大賽銭箱>
本堂(瑠璃殿)の前にある賽銭箱
1582年(皇紀2242)天正10年
明智光秀が、本能寺へ向かうために馬を返した場所(丹波国と摂津国の国境の山谷、現在の亀岡市曽我部町)に
桜の幼木があった
1990年(皇紀2650)平成2年
その桜が大木となり伐採されたとき、その年が最澄が神蔵寺を開いて1200年目にあたるという縁で、
有志縁者によってその桜の木材を利用し、賽銭箱として奉納されたもの
<薬師堂(東方閣)>
瑠璃殿の裏に立つ
薬師如来坐像(重要文化財)と脇侍に日光菩薩・月光菩薩が安置されている
西国四十九薬師霊場第四十三番札所
<鎮守社>
本堂の左手にある
八幡大菩薩が祀られている
<旧八幡大菩薩社>
<庭園>
本堂前に刈込などが植えられている
<手水社>
朝日山の石清水から流れでる霊水で目を洗うと、目が良くなるといわれている
<紅葉の名所>
境内には、約200本の楓が植生されている
京都府でも最も早く色づくといわれている
本堂前の石段下にあるイロハモミジは、樹齢約400年、高さ約13m
<薬師如来坐像(重要文化財)>
薬師堂(東方閣)の中央の厨子に安置されている本尊
延暦寺根本中堂の薬師如来と同木で作られたといわれる
最澄が自らが刻んだともいう
平安時代末期の様式
「口丹波佐伯薬師」「佐伯薬師」と称される
西国四十九薬師霊場第四十三番札所になっている
<日光菩薩像・月光菩薩像>
薬師如来坐像の右側・左側の脇侍
平安時代末期の作
薬師如来坐像・日光菩薩像・月光菩薩像の三尊は、度々の戦火の難を逃れ、
菰(こも)に包まれて岩山に隠されたといわれる
<釈迦如来坐像>
本堂(瑠璃殿)に安置されている
<御開帳> 1月1日から3日
<聖天祭・花祭・御開帳> 4月8日
<薬師会・御開帳> 9月12日
<回峰行>
9月第2土曜日
朝日山登山が行われる
<菰川(こもがわ)>
1575年(皇紀2235)天正3年
織田信長の命により、明智光秀の兵火にかかり全焼させられたときに、
本尊は、信者達により、菰(こも)で巻かれ山中に隠されて、難を逃れた
それ以来、その山中の川が「菰川(こもがわ)」と称されるようになった
<朝日山>
本堂の背後、西にある霊山
標高442m
伝教大師 最澄が、延暦寺を建立しているときに、西方に紫雲たなびき朝日に映える山を見つけられ、自ら足を運んだといわれる山
回峰修行が行われていた
真東に比叡山が望める
動植物の宝庫となっている
地元の環境整備組合により維持・管理され、ふれあいの谷川、遊歩道、梅林園などが整備されている