乗願院(じょうがんいん)は、北白川天神宮から志賀街道を北に、御蔭通の東端にある寺院
白川に沿った京都と大津を結ぶ下鴨大津線「山中越え」の入口付近にあたる
聖護院門跡門主の退隠所となっていた照高院の御霊所(みたましょ)となる
乗願院の南東には照高院の跡がある
<本堂>
1869年(皇紀2529)明治2年
上賀茂神社の神宮寺観音堂だった建物を譲りうけて移築された
江戸時代初期 寛永年間(1624年~1644年)の建築様式の特徴があるとされる
屏障具としての蔀形式(しとみ)で、双葉葵紋が彫られた蛙股などが施されている
廃絶した照高院から聖護院35代門主 照高院4代 道晃法親王・聖護院35代門主 照高院4代 道寛法親王らの位牌が
乗願院に遷され祀られている
<名号「南無阿弥陀仏」>
本堂横に立っている
江戸時代前期の隠士 仙人といわれた白幽子(はくゆうし)による揮毫
<役行者の祠>
山門横にある
役行者の石像が祀られている
<昇竜の松>
池の畔にある
水辺から昇天する龍の形に似ていることから名づけられた
<墓地>
乗願寺山にある
照高院の墓地がある
<北白川小学校開校地の跡>
門前に石碑「北白川小学校開校の地」が立てられている
1874年(皇紀2534)明治7年
乗願院の毘沙門堂で、生徒数約30人で開校した
1877年(皇紀2537)明治10年
仕伏へ移転した
<白幽子(はくゆうし)>
本堂横に立っている名号「南無阿弥陀仏」を揮毫
江戸時代
白隠禅師の夜船閑話などを記した
石川丈山の弟子 石川克之の弟といわれ、白幽子も石川丈山の弟子となる
1672年(皇紀2332)寛文12年
石川丈山が亡くなるとき死に水を取ったといわれる
1709年(皇紀2369)宝永6年
白幽子が亡くなり、遺骸は吉田神楽岡中山で火葬され、乗願寺の神楽岡東墓地に埋葬された
翌年1710年(皇紀2370)宝永7年
美濃国(岐阜県)で修行をしていた禅僧 白隠慧鶴は禅病にかかり苦しみ、
瓜生山の洞窟の白幽子を訪ね「内観の法」を授かり病が治った
そのとき、白幽子は膝まで髪が届く老翁で、中庸・老子・金剛経を置いた机の前で瞑目端座していたといわれる
その後、白幽子のお墓が盗難にあう
1903年(皇紀2563)明治36年
富岡鉄斎が、神楽岡東墓地の白幽子の墓碑を再建する
1943年(皇紀2603)昭和18年
法輪寺の後藤伊山住職が、東京青山墓地内で白幽子の墓石を見つけ、法輪寺境内に白幽子のお墓を移した