恋塚浄禅寺(こいづかじょうぜんじ)は、上鳥羽の千本通に面して建つ
<本堂>
本尊 阿弥陀如来像と文覚上人、袈裟御前像、遠藤盛遠像が祀られる
<観音堂>
十一面観世音菩薩が安置されている
<地蔵堂>
<袈裟御前の首塚>
袈裟御前の供養塔である宝筐院塔の五輪塔が立っている
「恋塚」とも称される
<重修恋塚碑>
境内入り口の山門横の恋塚碑
恋塚と寺の由緒が記されています
1647年(皇紀2307)正保4年
領主 永井日向守直清が、林羅山に撰させて袈裟の貞女を讃えた碑を建てる
<縁起石碑>
重修恋塚碑の横に立つ
寺の縁起を示す六字名号碑
1909年(皇紀2569)明治42年に建立
<鳥羽地蔵(とばじぞう)>
852年(皇紀1512)仁寿2年
小野篁が、一度、息絶えて冥土(めいど)へ行き、生身の地蔵菩薩に出会い蘇った後、
木幡山(こばたやま)の一本の桜の大木から六体の地蔵菩薩像を刻んだうちの一つ
<十一面観音菩薩立像(京都市指定有形文化財)>
観音堂に祀られている
<縁起絵巻>
江戸時代のもの
<六地蔵めぐり>
地蔵盆
8月22、23日
上鳥羽橋上六斎念仏鉦講が行われる
「源平盛衰記」によると
平安時代末期
北面武士の遠藤盛遠(えんどうのもりとお)が、
同僚 渡辺佐衛尉源渡(みなもとのわたる)の妻 袈裟御前(けさごぜん)に恋をする
遠藤盛遠は、袈裟御前に「自分の妻にならなければ母親を殺す」と脅迫する
袈裟御前は、悩んだあげく、遠藤盛遠に夫を殺すように頼んだ
しかし、遠藤盛遠は、夫の身代わりとなっていた袈裟御前の首をはねてしまう
遠藤盛遠は、己の非道を恥じ悔やみ、高雄山 神護寺で出家して「文覚」と名乗り、日本全国を荒行して廻る
遠藤盛遠は、袈裟御前の菩提を弔うため、一宇を建て首を埋めたのが浄禅寺の由来
1647年(皇紀2307)正保4年
領主 永井日向守直清が、林羅山に撰させて袈裟の貞女を讃えた碑を建てる
<鯉塚>
夜な夜な、寺の近くの池に棲んでいた大きな鯉が、妖怪として現われたので退治して埋めた塚ともいわれる
伏見区下鳥羽城ノ越町にも恋塚寺がある
寺伝によると、文覚が、袈裟御前の菩提を弔うために建てたとされている
<鳥羽恋塚碑銘>
版木
上鳥羽の恋塚寺にある「恋塚碑」の撰文と全く同じ内容が刻まれている
1640年(皇紀2300)寛永17年の銘