十念寺(じゅうねんじ)は、相国寺の東、鴨川の西の寺町通に並ぶ寺院の一つ
真阿上人が、室町6代将軍 足利義教に、十念を授けたことが「十念寺」の名前の由来
浄土宗での「十念」は、導師が信者に「南無阿弥陀仏」の名号を唱え授け仏縁を得させることをいう
<本堂>
西面して建っている
ビザンティン様式を取入れた集中式ドームの建物
東ローマ帝国で発祥し、現在でも正教会の聖堂やイスラム教のモスクにも見られる様式
堂内は三方のハイサイドライトから採光され、本尊の阿弥陀像が浮かび上がっている
鉄筋コンクリート構造、八注屋根(八角堂)、瓦葺、屋根に鳳凰が乗っている
1993年(皇紀2653)平成5年
建築家でもある一心寺(大阪)の高口恭行住職の設計により建立される
<地蔵堂>
像高約2mの十念寺地蔵が祀られている
江戸時代には、上下寺町三十六地蔵めぐり第5番札所とされていた
1715年(皇紀2375)正徳5年の建立
1993年(皇紀2653)平成5年に再建された
<墓所>
後陽成天皇の第8皇女 高雲院宮のお墓
6代将軍 足利義教のお墓
桃山時代の儒医 曲直瀬道三のお墓
豊臣秀吉に仕えた医師 施薬院全宗(せやくいんぜんそう)のお墓
江戸時代の絵師 海北友雪のお墓
江戸時代の公家 徳大寺公城(とくだいじ きんむら)のお墓
鋳造師 金座・銀座両家のお墓
<鐘楼>
<鎮守社>
<繁忠大明神碑>
<初代曲直瀬道三顕彰碑>
京都の生まれで、古医方中興の祖といわれる名医 曲直瀬道三の顕彰碑が立つ
天皇家や徳川家康など徳川家や大名などの難病を治療し、江戸幕府からは、曲直瀬家を世襲の侍医典薬とされた
<竹内式部贈位の碑>
竹内式部(たけのうちたかもち)は、越後国の医者 竹内宗詮の子で、江戸時代の神道家・尊王論者
1728年(皇紀2388)享保13年に上京し徳大寺家に仕え、崎門学派で垂加神道を学び、家塾を開いて公家らに教えた
1758年(皇紀2418)宝暦8年の尊王論者への弾圧事件 宝暦事件により京都追放となり伊勢に移る
1766年(皇紀2426)明和3年の明和事件により無関係ながら捕らえられて、八丈島へ流刑となり三宅島で病死した
<丈六 阿弥陀如来坐像>
本尊
空海の作とも、「雍州府志」では恵心僧都 源信の作とされている
東山にあった雲居寺(うんごじ)から移されたものといわれる
<開基真阿像>
本堂に祀られている
<紙本着色 仏鬼軍絵巻(ぶっきぐんえまき)一巻(重要文化財)>
「十念寺本」といわれ、室町時代の説話「仏鬼軍(ぶっきぐん)」が4図3段の絵巻になっている
仏菩薩と地獄の冥官の合戦が描かれ、大日如来の加勢により閻魔王庁が炎上する
第一図「地獄の図」、第二図「阿弥陀勢出陣の図」、第三図「薬師勢の出陣の図」、
第四図「釈迦勢の出陣の図・蓮華を生じる地獄の釜、不動明王らの加勢、逃げまどう獄卒と浄土と化す地獄」
一休禅師の筆といわれる
京都国立博物館へ寄託されている
<襖絵「雲龍図」>
曾我蕭白の筆
<十念寺縁起>
<十年寺歓進帳十念寺縁起>
<足利将軍諸士念仏講名帳>